2002年の夏だ。私はカリブ海にあるセントルシアという島でのバカンス中に、リバプール生まれだという若い男女と出会った。

 同じイングランドからやってきたこともあり、私たちは自然と意気投合した。そして互いにサッカーファンだと知ると、「実はエバートン・ファンなんだ」と語った彼は、愛するクラブの下部組織がいかに優れていているかを熱弁を振るった。この時、全く入り込む余地を与えられなかった私は圧倒されるばかりだった。

 その出会いを忘れかけていた2か月後のある日のことだった。私はテレビを見て、愕然としていた。エバートンの本拠地グディソン・パークで行なわれたアーセナル戦のピッチに、あの青年が立っていたのだ。

 すでに腰を抜かしかけていた私はさらに度肝を抜かれる。「ウェイン・ルーニー」という名の16歳の若者は、エリア外から名手デイビッド・シーマンの牙城を崩す強烈なミドルシュートを突き刺したのである。この時は驚きのあまり言葉が出なかった。

 そのルーニーが、現地時間1月15日に19年に及んだ現役生活からの引退を発表した。35歳となり、ダービー・カウンティで正式な監督になるのを機にスパイクを脱いだのである。

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 彼は、最も長いキャリアを過ごしたマンチェスター・ユナイテッドやエバートンのファンだけでなく、イングランド中のサッカーマニアから愛される存在だった。

 あのクリスチアーノ・ロナウドが「ウェインはピットブル(闘犬)だ」と評したように、若手時代のルーニーは気性が荒く、ピッチ内外で頻繁にトラブルを起こす“問題児”だったが、そんな彼を誰もがまるで我が子のように見つめていた。

 彼がどれだけ酒やギャンブルに溺れ、女性問題などのスキャンダルで揺れても、サッカーファンの多くは、ピッチ上で闘争心をむき出しにし、逞しく戦うルーニーを「誰でも間違いは起こすもの。彼ならばやってくれる」と見捨てはしなかった。

 もちろん彼の持っていたポテンシャルの高さが、人気の秘訣の一つでもある。

 イングランド代表(53ゴール)とマンチェスター・ユナイテッド(250ゴール)の最多得点記録を塗り替えた。さらに大会最年少得点記録(18歳)を更新したEURO2004や2011年に行なわれたマンチェスター・ダービーで決めたバイシクルボレーのように記憶に残るシーンも演出し、“持ってる男”としても観衆を熱狂させた。
 彼が生き抜いてきた頃のイングランド・サッカー界は「ゴールデンエイジ」と呼ばれる時代でもあった。デイビッド・ベッカム、スティーブン・ジェラード、フランク・ランパード、マイケル・オーウェン、リオ・ファーディナンド、ジョン・テリーなど攻守にタレントが居並んでいた(イングランド代表は成功を掴めなかったが……)。

 個性派揃いの「黄金世代」にあってもルーニーの才能は際立っていた。得点能力だけでなく非凡なパスセンスも有していていた彼は、時にゲームメイク役も任されるなど、間違いなく稀有な存在だった。まさに“何でもできる悪ガキ”。元々アウトローを好む気質にあるイングランドのサッカーファンは、だからこそ彼を愛してやまなかったのだろう。

 では、監督として大成するだろうか。現在、イングランド2部で最下位に沈むダービーでのミッションは容易ではない。現役時代に名将サー・アレックス・ファーガソンの薫陶を受けたとはいえ、新人監督にはあまりに高すぎるハードルだと言える。

 しかし、それは就任会見で「準備は十分にできている」と意気込んだ本人も覚悟の上だろう。16歳で私の度肝も抜いた彼なら、セカンドキャリアでも大きな功績を残してくれることを期待したい。

文●スティーブ・マッケンジー(サッカーダイジェスト・ヨーロッパ)

スティーブ・マッケンジー (STEVE MACKENZIE)
profile/1968年6月7日にロンドン生まれ。ウェストハムとサウサンプトンのユースでのプレー経験があり、とりわけウェストハムへの思い入れが強く、ユース時代からサポーターになった。また、スコットランド代表のファンでもある。大学時代はサッカーの奨学生として米国の大学で学び、1989年のNCAA(全米大学体育協会)主催の大会で優勝に輝く。