戦国時代、世の乱れから既存の身分制度が揺らぎ、実力次第で出世は元より、主君を押しのけて自分がとって代わる下剋上(げこくじょう)さえ夢ではありませんでした。

もちろんリターンに比例して(あるいはそれ以上に)リスクが高まり、元の身分が低ければ成功への道のりは遠く厳しいものとなりますが、それでも命を賭けるだけの価値はある、と多くの者たちがチャンスに挑んだことは、広く知られる通りです。

今回はそんな中、中国地方の覇者・毛利(もうり)氏に仕え、戦功によって武士の身分にまで出世した悪小次郎(わる こじろう)のエピソードを紹介したいと思います。

悪(ワル)の小次郎、毛利元就に奉公する

悪(わる)氏のルーツについては詳細な記録がなく、小次郎も中間(ちゅうげん。非武士の奉公人)という低い身分であったことから、恐らく代々の名字ではなく、小次郎の二つ名がそのまま定着?したものと考えられます。

「やぃやぃ、我こそは『ワルの小次郎』……命の要らねぇヤツぁかかって来やがれ!」

みたいな感じでしょうか。周囲から認められるほどの不良だとしたら、恐らく生家で持て余されて、口減らしに武家へ奉公してみた……というのが、小次郎の出発点だったのかも知れません。

後に中国地方の覇者となる毛利元就。Wikipediaより。

そんな小次郎は安芸国(現:広島県西部)一帯を治める戦国大名・毛利元就(もうり もとなり。あるいはその家臣)に仕え、鉄砲放(てっぽうはなち。鉄砲隊)に配属されました。

当時の最新兵器であり、貴重品でもあった火縄銃を担当させてもらうのはハードルが高そうですが、貴重だからこそ家柄や身分にとらわれず、実際の操法に長けた者が割り当てられたものと考えられます。

そうでなければ宝の持ち腐れになってしまいますし、身分の高い武士たちの中には伝統的な弓ならともかく、鉄砲のような目新しい飛び道具を卑怯として忌避する者もいたようです。

「へへっ……こりゃ面白ぇや!」

そんなこだわりなど持たない小次郎は鉄砲の魅力にハマったことでしょう。天地をどよもす轟音に立ち上る硝煙の匂い、何より弾が命中した時の快感と言ったらたまりません。

「どんなに偉い大将だって、弾を食らえばみんな死ぬ……早く手柄を立てたいもんじゃ!」

当時、鉄砲放の仲間には市川久栄(いちかわ ひさひで)、岡元良(おか もとよし)、飛落小次郎(とびおち こじろう。後に宇多田藤右衛門) といった面々がおり、時に助け合い、また時には武功を競い合うのですが、それはまた別の話。

毛利家の鉄砲放に加わり、仲間たちと武功を競った悪小次郎(イメージ)。

そんな中、小次郎は元服して諱を景政(かげまさ)と称します。改名の由来は不詳ですが、もしかしたらヤンチャな小次郎のこと、火薬をいじくっていて暴発させ、右目を失明してしまったので

「これは鎌倉権五郎景政(かまくらの ごんごろう かげまさ。右目を失いながら活躍した平安時代の名将)にあやかったんじゃ!」

……などと開き直った?のかも知れません(あくまで想像ですが)。転んでもタダでは起きない図ぶt……もとい前向きさこそ、ワルの身上というもの。ともあれ小次郎は鉄砲の名手として、毛利家中にその名を轟かせていくのでした。

数々の戦場で武功を重ねる

さて、史料によれば小次郎の活動時期は大きく二つに分けられます。

前期:永禄12年(1569年)〜同13年(1570年)
後期:天正10年(1582年)〜同13年(1585年)

血気盛んだったであろう小次郎のことですから、初陣を永禄12年の15〜20歳ごろと仮定すると、前期は10代後半から20代前半、後期は20代後半から30代前半と考えられます。

いくら「人生五十年」と言われた戦国時代であっても、30代前半での引退は少し早いように感じますが、もしかしたら前期に重傷を負ってしまい、しばらく第一線から退いていたか、あるいは戦果を上げられなかった(記録してもらえなかった)のかも知れません。

いずれにしても、鉄砲の腕前で武士にまで出世した小次郎の武勲を列記すると、以下の通りとなります。

合戦に臨む小次郎たち(イメージ)。

永禄12年(1569年)

瀬戸内海を渡って筑前国立花山城(現:福岡県福岡市など)の攻略戦に参加。一度は攻略するも多々良浜(たたらはま。現;福岡県福岡市)の戦いで敗退してしまいます。そんな劣勢の中でも挫けることなく応戦し、敵3人を撃ち倒したことが高く評価されました。

永禄13年(1570年)

山陰の雄・尼子(あまご)氏征伐のため出雲国(現:島根県東部)へ出陣、数々の虎口(ここう)で先懸(さきがけ。先鋒)を志願した勇気を賞賛・評価されました。

虎口とは城の入り口で、敵が特に守りを固めることから危険な任務の代名詞とされていますから、勇猛果敢な小次郎の性格が察せられます。

そんな4月18日には敵将の宮倉右衛門兵衛尉(みやくら うゑもんひょうゑのじょう)を撃ち取る大殊勲を収め、元就から「比類なき武功」を賞賛する言葉が伝えられました。

天正10年(1582年)

およそ12年のブランクを経て東の宇喜多(うきた)氏討伐に従軍、備前国八浜(現:岡山県玉野市)の戦いで宇喜多基家(もといえ)の軍勢と戦い、敵1名を射ち倒します。

天正13年(1585年)

主君・毛利輝元(てるもと。元就の孫)が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の要請によって四国へ出兵、伊予国(現:愛媛県)を攻めた折に敵1名を撃ち倒しました。

これらの働きに対して輝元は配下の将らに対し、小次郎へ「忠義神妙(※神がかった、優れた働き)」との賞賛を伝えています。

敵を撃ち取ることの難しさ

以上が小次郎の主な武功となり、以降は史料から姿を消してしまうのですが、その生涯における確認殺害戦果(confirmed kill)は6人に留まっています。

「もっとこう『無双』できなかったの?例えば542名を射殺した英雄シモ・ヘイヘ(1905年〜2002年)みたいに!」

現代の銃火器と比べて、まだまだ発展途上だった火縄銃。

現代的な感覚ではそう思ってしまうかも知れません。しかし、近代的な銃火器と戦国時代の火縄銃では、運用の前提が大きく異なることを忘れてはいけません。

当時の火縄銃は連射が出来ないどころか、一発撃つごとに弾丸を込め直し(一般的に数十秒〜1分程度)、更には数発ごとに銃身を掃除してやらねば(粗悪な)火薬のカスが詰まって使い物にならなくなってしまいます。

弾丸の込め直しについては火薬とセットになった早合(はやごう)の普及や演練によって時間短縮が図られたものの、数発ごとの銃身清掃はどうしようもありません。

(※)一人で数丁を所持して、一発ごとに使い捨てて、撃ち切ったらすべて持って安全なところまで逃げて、再び清掃・弾込めしてから戦線復帰すればいいのでしょうが、あまり現実的ではありません。

また、火縄銃は有効射程距離も非常に短く、目安として「敵の目の白黒が見分けられるくらい」とも言われ、個人差はあるものの10〜25mくらいまで接近しないと弾が命中しても致命傷には至りにくいとされています。

つまり、あらかじめ弾薬が用意された火縄銃一丁を抱えてギリギリまで敵に接近し、慎重に狙いを定めて見事に命中させ、その敵を倒した証拠(目撃者の言質をとったり、名乗りを上げたり)を確保した上で生還せねば、確認殺害戦果としては認められないのです。

遮蔽物に身を隠し、自分の射撃順に備える足軽たち。Wikipediaより。

もちろん、大勢の鉄砲放と共に連係プレーで一斉射撃を喰らわせ、それによって敵を倒した方が安全な上に効率的ですが、それでは「小次郎が撃ち倒した」証拠にならず、武功を求める者たちは、時として命を賭した抜駆けを敢行したのでした。

ゲームや講談なんかだと、敵兵をバッタバッタとなぎ倒し……という描写が人気を呼びますが、人を殺すというのは決して簡単ではなく、同時に自分の命も賭けねば成し遂げえないことを改めて実感します。

エピローグ

さて、数々の修羅場をくぐり抜けた小次郎がいつから武士の身分に取り立てられたのかは未詳ですが、息子の悪八左衛門(やざゑもん)、孫の悪弥左衛門政道(まさみち)、曾孫の悪弥左衛門道正(みちまさ)と代々「三十人通(さんじゅうにんどおり。毛利家における武士身分)」となったのでした。

雑兵たちにも一人々々の人生があり、過酷な時代を闘い抜いた。『雑兵物語』より。

一兵卒の身分から火縄銃一丁で武功を上げて立身出世を果たし、興した家を子孫へと継承した悪小次郎景政。

こういう話を聞くと、厳しい戦国時代を生き抜いて、現代の私たちまで命脈を受け継いで下さったご先祖様の苦労が偲ばれると共に、感謝の思いもひとしおというものです。

※参考文献:
三卿伝編纂所編『復刻版 毛利元就卿伝』マツノ書店、1997年1月
鈴木眞哉『鉄砲と日本人』ちくま学芸文庫、2000年9月
佐々木稔 編『火縄銃の伝来と技術』吉川弘文館、2003年3月