プロ野球・珍事件ファイル

 突如現れた“見えない敵”との戦いを強いられた2020年…。プロ野球界も開幕の延期やシーズンの短縮、無観客での開催など、これまでにない苦しみを経験しながら、なんとか日本シリーズまでの全日程を走り抜いた。

 シーズンが全体的に後ろ倒しになった分、オフは例年よりも短くなった。気が付けば1月も折り返し地点を過ぎ、いよいよ“球春到来”を告げるキャンプインが迫ってきている。

 「緊急事態」の情勢から、普段通りのキャンプを迎えることは難しそうだが、野球のある日常が戻って来るまであと少し。このオフの期間は、過去のプロ野球界で起こった“珍事件簿”をお届けしたい。

◆ 本塁打王を巡る“泥沼の四球合戦”の末に…

 ペナントをかけたチームごとの争いはもちろんのこと、シーズン終盤のもうひとつの楽しみと言えば「タイトル争い」。最終盤になってくると、チームもなんとかタイトルを取らせようという特別な采配も増えてくる中、残念ながらファンを興ざめさせてしまうシーンもある。

 そのひとつが、1984年のセ・リーグ本塁打王争いである。

 阪神・掛布雅之と中日・宇野勝が37本で並び、両チームとも残り2試合。ところが、皮肉にもこの2試合が直接対決だったことから、2日間にわたる“泥沼の四球合戦”が幕を開ける。

 まず10月3日の25回戦。中日の先発・鈴木孝政は、1回表一死一塁で当然のように掛布を歩かせる。この時点で中日はまだ優勝の可能性がわずかに残っていただけに、勝敗度外視の四球攻めに地元・名古屋のファンは鼻白んだ。

 直後、阪神はバースのタイムリーなどで2点を先制。その裏、阪神の先発・御子柴進も、先頭の宇野にいきなり四球。一死後、谷沢健一に同点2ランを浴びた。

 2回、阪神が4−2と再び勝ち越した直後、二死走者なしで掛布が2度目の打席に入るが、これまた四球。そして、宇野も3回一死から四球で歩かされ、田尾安志は連続四球のあと、谷沢の逆転3ランが飛び出す。

 これに対し、阪神も4回二死二塁で掛布が3度目の四球のあと、岡田彰布が同点タイムリーを放つ。しかし、中日も5回、宇野の四球のあと、谷沢の適時二塁打で6−5と勝ち越すといった具合に、両チームの得点のほとんどが2人への四球絡みだった。

 極めつけは7回。宇野に二死満塁で打席が回るも、なんとここも敬遠…。そんなトンデモシーンもあり、掛布・宇野ともに5打席連続四球で計10打席40球すべてボールという泥仕合に。

 さらに、1日おいて甲子園で行われた10月5日の最終戦でも、2人は全打席歩かされ、ともに10打席連続四球。1965年にスペンサー(阪急)が記録した8打席連続四球を更新する日本記録となった。

 ちなみに、試合は阪神が7回を終わって6−2とリードしていたが、中日は8回にモッカの3ランで1点差に追い上げ、9回はこれまた宇野の四球を足場に、谷沢の適時打で7−6の逆転勝ち。

 この結果、阪神の先発・池田親興は四球合戦のとばっちりで防御率を下げたばかりでなく、ほぼ手中にしていた2ケタ勝利も逃し、このシーズンは9勝(8敗)止まり。打率2割8分、16本塁打の小早川毅彦(広島)に新人王をさらわれてしまった。

◆ 露骨な四球攻めに、ファンから「金返せ!」

 本塁打の日本記録がかかった試合で露骨な四球攻めが繰り返されたのが、1985年10月24日の巨人−阪神だ。

 この日までに54本塁打を記録して1964年の王貞治の日本記録にあと「1」に迫ったバースだったが、シーズン最終戦の相手は、よりによって、その王監督が率いる巨人。はたして、先発・斎藤雅樹は1回一死一塁の第1打席から勝負を避けてきた。

 4回無死の第2打席もストレートで歩かされたバースは、6回無死一塁の3打席目、斎藤の外角高め、ボール気味の球にバットを出して中前安打。これが唯一のバットが届くボールだった。

 「無理にボールを打つと、(翌々日から始まる)日本シリーズに悪い影響が出る」と考えたバースは、第4・第5打席は自重。自らの運命を受け入れるかのように四球を選んだ。

 露骨なまでの四球攻めに、左翼席の阪神ファンからは「金を返せ!」「勝負しろ!」などの怒号とともに、空き缶や瓶類がグラウンドに投げ込まれ、試合が中断するというひと幕も…。

 試合は阪神が10−2で大勝したが、バースは1打数1安打4四球に終わり、王の記録にあと1本届かなかった。だが、この結果、すでに三冠王が確定していたバースは、最高出塁率のタイトルも手にすることになる。

 実は、前日までトップだった吉村禎章がこの日4打数無安打に終わったことから、わずか5毛差の.428でバースが逆転。四球攻めのとばっちりでプロ初タイトルを逃した吉村は、打撃部門無冠のまま現役を終えたのだった。

◆ 松永浩美は敬遠に「抗議の三振」

 首位打者争いをめぐる四球攻めがファンを激怒させたのが、1988年10月23日の阪急−ロッテ戦だ。

 ロッテ・高沢秀昭を僅差で追う阪急・松永浩美は、10月22日のロッテ戦で第1・第2打席と連続安打。高沢に1厘差の打率.326まで迫った。慌てたロッテ・有藤道世監督は、残る3打席を敬遠させる。

 両チームともにシーズン最終戦となった翌23日のダブルヘッダーでも、高沢が欠場するなか、松永は敬遠されつづける。第2試合の6回の敬遠で、前日から通算して11打席連続四球となり、ついに1984年の掛布・宇野の日本記録「10」を更新した。

 だが、この敬遠攻めは、間が悪過ぎた。オリックスへの身売りが決まった阪急は、この日のダブルヘッダーで42年の歴史に幕を閉じることになっていたからだ。

 別れを惜しんで西宮球場に詰めかけた3万7000人の阪急ファンが、ロッテ側に怒りのブーイングを浴びせたのは言うまでもない。

 そして、8回無死一・二塁の5打席目も当然敬遠。3ボールになったところで、スタンドのブーイングも最高潮に達した。

 すると、松永はなんと、3回続けて敬遠球にバットを投げつけるようにして自ら三振。「このまま険悪な雰囲気で終わるのも嫌だなと思い、バットを出したんです」。これを見たスタンドのファンは、「あっぱれ!」とばかりに大拍手を贈った。

 「三振してあれだけ拍手してもらったのは、僕が初めてじゃないですか(笑)」。最終的には1厘差で首位打者を逃したものの、松永はファンと心をひとつにして阪急のフィナーレを飾った。

文=久保田龍雄(くぼた・たつお)