コロナ禍で多くの企業が苦境にあえいでいる。倒産を経験し、「奇跡の再建」を果たした吉野家ホールディングスの安部修仁会長は「世の中が変わるほど、そこにチャンスが生まれる。思いやフィロソフィーが一番重要で、それ以外はすべて変わっていい」という――。(聞き手・構成=プレジデント社書籍編集部)

※本稿は、安部修仁『大逆転する仕事術』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

吉野家ホールディングスの安部修仁会長

■倒産前夜の乗っ取り騒動

1980年に吉野家は倒産するが、実はその直前、乗っ取り騒ぎがあった。

1970年台のはじめ、日本発のファストフードとして、急成長を遂げた吉野家は、急激な店舗拡大の影響で、次第に資金繰りが悪化していった。それに加え、メインの米国産牛肉の価格が高騰した。

そこで当時社長の松田瑞穂氏は、値上げを行う一方で、まだ研究途上だったフリーズドライの肉、さらには粉末のタレを使用した。

ところがこれが牛丼の質を低下させ、「値段が上がったのに味と質が落ちた」ということで、一気に客足が遠のき、経営が危うくなった。

そこで大株主であり、FCオーナーでもあったある会社に融資を頼んだ。すると、その不動産管理会社が、融資をするのと引き換えに、吉野家の実質的な指揮権を握ってしまったのである。

ちょうどそのころアメリカ留学をしていた安部修仁氏は呼び戻されて、びっくりした。

「あれだけ仕事に飛び回っていた仲間たちがまったく働いていない……」

吉野家=松田瑞穂だった松田社長の存在が消えていた。

かわりに、乗り込んできたその不動産会社が本社機能を乗っ取り、吉野家を一度倒産させよう、そう画策していたのだった。

■「3段階降格」という嫌がらせ

「そんな話が伝わってきたとき、私たちは完全に開き直りました。“言われる前に、こっちから先に辞めてやらあ”と。みんな若かったですから、あんたたちの思い通りにはならんぞ、というわけです」(安部)

吉野家ホールディングスの安部修仁会長

しかし、次々といやがらせをされる。

アメリカ留学から戻ったとき、東京地区の第二営業部長だった安部氏は、実質的な創業者の松田瑞穂のシンパだったため、露骨な左遷を受け、有楽町店の店長という3段階もの降格をされる。

それでも、「吉野家がどうなっていくか、この目で見届けてやろう」と安部氏は日々の業務に全力をつくす。

そんな頃のこと。

「N計画(乗っ取り)を企てていた会社は、経営する二十何店舗かにこれまでの正規の取引じゃないところから米を仕入れだした。もともとプロパーの連中からは『ルール以外のところから入れて営業している! 許せない! 阻止するべき』と声があがったんだけど、俺はいいんだと。ちょうど、うちは倒産するんじゃないか、乗っ取られるんじゃないかということで、現金決済でないと材料が入ってこなくなっていた。だから、『うちには物が足りなくなったら伝票さえ切れば別店舗から材料移動させていいというルールがあるんだから、それをやりゃいいんだ』ってね」(安部)

そうして、安部氏は乗っ取りを企てていた会社の店舗に入る予定だった商品をどんどんと取り上げていった。

「あのときは痛快だったな〜。なにせ、それまでやられっぱなしだったからね。そんなことはよく思い出すよね」と豪快に笑った。

■「奇跡の再建」と言われて

その後、吉野家は外食として初の会社更生法の適用を受け、管財人・増岡章三氏の元で再建の道を驀進する。

「理は吉野家にあり!」と、次々と乗っ取りを企てた不動産会社などに法的に対抗手段をとりつつ、社内を建て直し、負債総額115億円、資産なし、銀行からの借り入れナシで100%弁済をして、奇跡の再建を果たした。

「増岡、今井両先生を中心とした社員全員による力で、もう一度、吉野家の本質と失敗の原因を確認できたおかげで、吉野家に立ち直りの気配が見えた。マスコミの勝手な意見にまどわさることなく、『自分たちの商売の本質と失敗の原因を見極めよう。変えるのは、それをしっかりと確認してからでも遅くない。吉野家がなぜダメになったか、みんなで徹底的に分析しよう』と活発に議論をさせてくれた」(安部)

それによって、スピード重視で一本気だった吉野家に、徹底した議論と正論をよしとするDNAが新たに埋め込まれた。

■180度違う二人のリーダーシップ

「吉野家の実質的創業者である松田瑞穂は超ワンマン。何をやるにもほとんど理由を言わずに、結論だけ。「すぐ反応しろ! うだうだ言っていないで、すぐに取り組め!」という人。ただ、松田さんの指示はその場の気分や思いつきで理不尽なことを言うのではなく、裏には松田さん流の理屈がきちんとあって、それが解ったときには人をうならせるような深みもありました」(安部)

安部修仁『大逆転する仕事術』(プレジデント社)

一方で、再建を担った増岡章三氏についてはこう述懐する。

「何をするにしても実にじっくりと検討してから。石橋を叩きすぎて壊すんじゃないかと思うほど安全性重視で慎重。決めなきゃいけない期限がくるまで決めない。決めないかわりに、ほかの選択肢を求めてくる。増岡先生のもとで、決定という言葉の定義が変わりました。さまざまな手段が選択肢として存在している中で、最も有効かつ合理的な一つを選ぶことが決定だと。重要な問題ほど、期限がくるまで決めなくても不都合がないということも学びました」(安部)

180度違うトップの元での再建。それが吉野家の強さの源泉となった。

■「未来の吉野家は牛丼をやっていないかもしれない」

「これからの時代は無形なものは守らなければいけないけど、有形のものはすべて変わってもかまわない。だから未来の吉野家は牛丼をやっていないかもしれない」(安部)

BSEのとき、『あの味でなければ吉野家の牛丼ではない。あの味が出せなければ牛丼はやらない』と、そこまでこだわったにもかかわらず、その牛丼をやらない吉野家という選択もありだという。

「思いやらフィロソフィーといったところが一番重要で、それ以外はすべて変わっていいと私は思っています。商品だろうと、商品をハイバリューにするための組み立てや工夫といってものも、姿形あるものはすべて変わっていい」(安部)

そして、いまのコロナ禍においては、

「世の中の変化は足元の要素がまず変わっていく。そのことが生活様式とか生活観念とか常識を変えていくのだけれど、そういうものが大きく変われば変わるほど、そこにチャンスが生まれる。そのチャンスに何を課題に据えてチャレンジするか。チェンジはチャンスを生み、そのチャンスはチャレンジをもって享受することができる。きっと今はよい時代です」(安部)

吉野家の逆境をチャンスに変えるDNAがここにある。

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安部 修仁(あべ・しゅうじ)
株式会社 吉野家ホールディングス会長
1949年福岡県生まれ。1967年福岡県立香椎工業高等学校卒業後、プロのミュージシャンを目指し、上京。バンド活動の傍ら、吉野家のアルバイトとしてキャリアをスタート。1972年吉野家の創業者 松田瑞穂氏に採用され、正社員として吉野家に入社。1980年に倒産した吉野家の再建を主導し、1992年に42歳の若さで社長に就任。2000年には東京証券取引所第1部に上場を果たす。在職中はBSE問題、牛丼論争と呼ばれる熾烈な競争を社員の先頭に立って戦い抜き、元祖牛丼屋である“吉野家の灯り”を守り続けた。2014年5月に吉野家ホールディングスの代表取締役を退任し、若い後進に道を譲る。この勇退劇は後継者不足に悩む企業経営者に衝撃を与えた。現在は若い世代に自身の経験を伝えるため、精力的に活動している。著書に『吉野家 もっと挑戦しろ! もっと恥をかけ!』(廣済堂出版)、共著に『吉野家で経済入門』(日本経済新聞社)などがある。
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(株式会社 吉野家ホールディングス会長 安部 修仁)