戦いの中で腕を一本でも失うか使用不能になると当たり前ですが、戦うことが非常に困難になり再起不能になるかと思われます。

しかし、そんな状況でも敵に立ち向かった不屈の闘志を持った武士がいました。

今回は困難な状況でも戦うことを諦めなかった隻腕の武士2人を紹介します。

片手千人斬りの伝説を持つ土屋昌恒

まず一人目は武田家の猛将、土屋昌恒(つちや-まさつね)です。

金丸筑前守の五男として生まれた昌恒は、初陣の際に土屋貞綱(元の名は岡部貞綱で今川家から武田家へ帰順した後に土屋姓を与えられた)の家臣を討ち取った功績から貞綱の養子となり、永禄11年(1568)に土屋昌恒と名を変えました。

しばらくして起きた天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて、養父の貞綱と兄で土屋氏を継承した土屋昌続(つちや-まさつぐ)が討ち死にしてしまったので、昌恒は土屋家の当主として2人の家臣を率いることになります。

その後、天正10年(1582)の甲州征伐で織田軍によって武田軍が壊滅状態に陥り、家臣たちが相次いで離反していく中で昌恒は武田家当主、武田勝頼のもとにいました。

そして、敗色が濃厚となり勝頼が天目山にて自害を覚悟した際、昌恒は自害の時間を稼ぐため織田軍相手に奮戦します。

この時、昌恒は地の利を生かして狭い崖道に織田軍を迎え撃ち、自身は崖下へ落ちないように片手で蔓を掴んでいたので、もう片方の腕のみで戦いました。

昌恒の奮戦によって勝頼は邪魔されることなく自害を果たし、目的を達成した昌恒も勝頼の後を追うように最期を迎えました。

自害に臨む武田勝頼/Wikipediaより

不安定かつ片手ながらも昌恒は千人の織田軍を崖下の川へ突き落したので、その川は3日間赤く染まったままだったそうです。

この功績によって、昌恒は『片手千人斬り』の異名と伝説を残しました。

伊庭の小天狗と称された伊庭八郎

そして2人目は伊庭の小天狗と称された幕末の武士、伊庭八郎(いば-はちろう)です。

天保8年(1844)に生まれた八郎は幼いころから漢学や蘭学といった学問に興味があったので、剣術稽古を16の頃から始めました。それでも才能があったので、八郎は伊庭の小天狗や伊庭の麒麟児と呼ばれていました。

伊庭八郎/Wikipediaより

慶応2年(1866)、八郎が以前に所属していた江戸幕府軍の部隊、奥詰隊が遊撃隊となると八郎も加入します。

そして慶応4年(1868)に鳥羽伏見の戦いが勃発すると遊撃隊は上洛し、新政府軍と戦いますが、敗れてしまったので江戸へ退却します。

その後は遊撃隊の一部を率いて彰義隊と新政府軍の戦いである上野戦争に参戦し、箱根付近で戦いました。その時、左手首に皮一枚を残す重傷を負いますが、自ら左腕を切断しました。

左手を失いながらも戦いを続けた八郎は、箱館に到着するも明治2年に木古内の戦いで胸部に致命傷を負ってしまいます。そして最後は榎本武揚からもらったモルヒネを飲み干し、自害しました。

最後に

主君のために戦った土屋昌恒と幕府軍の勝利のために戦った伊庭八郎の目的は違えど、戦わなければならない状況に置かれていたのは事実です。

そんな状況下で片腕となっても戦い続けた2人の生き方には目的を達成するまでは死んでも諦めてはならない折れることのない意志を感じとれました。