アメリカ大統領選挙まで1週間を切った。トランプ大統領の劣勢が伝えられる中、岩盤支持層の心をつかむと期待を寄せるのが、月に宇宙飛行士を送る「アルテミス計画だ」。その壮大な内容をジャーナリストの知野恵子氏が解説する--。
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2020年10月26日、ペンシルバニア州アレンタウンで演説するドナルド・トランプ大統領。 - 写真=AFP/時事通信フォト

■科学にはまるっきり無関心のはずが…

共和党トランプ大統領と民主党バイデン前副大統領による2回目のテレビ討論会が終わった。ロイター/イプソスが発表した最新の調査によると、支持率はバイデン副大統領が50%とリードしているとはいえ、トランプ大統領の方も45%の支持率を維持しており、大統領選は拮抗したまま終盤を迎えた。

傍若無人な振る舞い、真偽や根拠不明の発言、新型コロナウイルスへの対応のまずさなど、言いだせばキリがないほど問題を抱えるトランプ大統領。中でも科学技術への無理解、無関心ぶりは就任直後から際立った。

しかし、そんなトランプ大統領が熱心に進める科学技術分野がある。米国が昨年決定した、月に再び宇宙飛行士を送る「アルテミス計画」だ。

米国は1960年代〜70年代に「アポロ計画」を実施し、世界で初めて宇宙飛行士を月に送り出した。国の威信をかけた旧ソ連との先陣争いであり、米国だけで計画を実現した。一方、アルテミス計画は国際協力で進める方針をとり、日本など各国へ参加、協力を求めている。日本は昨年10月に参加を表明した。

■選挙前に8カ国と合意を取り付けた

それを推し進める動きが10月14日にあった。日米欧など8カ国が署名した「アルテミス合意」だ。月探査を進めていくにあたっての基本原則を「平和目的」「透明性の確保」「緊急時の支援」「科学データの公開」「宇宙条約を守ったうえでの資源の採取、利用」「他国の活動に干渉しない」などとした。

「合意」なので強制力はないが、トランプ政権は大統領選前の署名にこだわった。それだけ月探査に力を入れており、自分の成果のひとつにしたいのだろう。署名が行われた14日、加藤勝信官房長官は「米欧などと連携して、国際探査やルール作りに積極的に取り組んでいく」と記者会見で述べ、日本政府としても月探査に前向きな姿勢を強調した。

月へ再び宇宙飛行士を送る構想は、実はこれまで何度も米国内で浮かんでは消えた。巨額の費用がかかること、アポロ計画で実施済みなので新規性に乏しいこと、月へ行く目的や意義がはっきりしないこと、などの問題があり、国民の支持を得ることができなかった。

■日本にとっては「夢みたいな話」だった

日本政府の宇宙政策担当者も、米国がアルテミス計画を打ち出す前は、有人月探査に冷たかった。「そんな夢みたいな話」と記者会見で笑い飛ばす人もいた。日本政府の関心は、実用的で、産業や安全保障に恩恵をもたらす、衛星やロケットだった。産業界も同じで、有人月探査のようなリスクを伴うものではなく、事業の見通しが立つように衛星やロケットを定期的に打ち上げる政策を望んだ。

しかし、ここに来て、その「常識」が覆された。米国がアルテミス計画を開始したことで、日米協力を重視する日本にとっても、有人月探査は重要テーマになった。来年度予算の概算要求にはそれが顕著に表れている。宇宙予算の要求額は、例年の1.5倍の約5400億円に膨れあがり、月探査関係は、前年の10倍以上の約810億円にのぼった。

■「月に滞在、さらに火星へ」驚きの計画

トランプ大統領のこだわりは、再び月に宇宙飛行士を送り込むことにある。2024年に2人の宇宙飛行士を月面に立たせ、そのうち1人は女性だと発言している。アポロ計画で月へ行った飛行士はすべて男性。初めて女性を月に送ることで、女性活躍をアピールしようと考えているようだ。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sharply_done

アルテミス計画では、月だけでなく、さらに先の計画も描かれている。月面に飛行士を送り込んだ後、月面基地を造り、そこを拠点に2030年代に火星へ飛行士を送るという壮大なものだ。アポロ計画は月へ行き、地球に戻ってくる往復飛行だったが、アルテミス計画は月に継続的に滞在し、さらに火星へ進出するというわけだ。

もちろんそんな計画を進めるとなると巨額の費用がかかる。NASAが公表した試算では、2021年度から25年度までにかかる費用だけでも280億ドル(約3兆円)にのぼる。この期間中に宇宙飛行士2人が月へ行くと見込んでいるが、さらに月面基地建設、火星への飛行、となると、どれだけ費用がかかるか分からない。コロナ下の厳しい経済情勢、広がる貧富の格差。こんな社会情勢の中で、米国民の支持を得るのは難しい。

■こだわる背景は「中国には負けたくない」

ではなぜ、トランプ大統領は月や火星に執着するのだろうか。二つ大きな理由がある。一つは中国との覇権争いだ。中国は、2003年に人を宇宙へ送り出すことに成功し、旧ソ連、米国に次いで宇宙へ人を送り出した世界3番目の国となった。その後も着々と独自に宇宙開発を進めている。月探査についても、2019年に世界で初めて月の裏側に探査機を着陸させることに成功しており、いずれ月へ飛行士を送ったり、月面基地を建設したりする、と見られている。

これはアポロ計画以前の話だが、世界で初めて旧ソ連の宇宙飛行士が宇宙船で地球の周りを飛行した時、「空からロシア語が降ってくるなんて耐えられない」と米国民の間で問題になった。見上げる月に中国人だけが滞在している、などということになれば、宇宙先進国を自負する米国は屈辱感を味わう。ここで負けるわけにはいかない。

有人月探査が岩盤支持層や無党派層の心にどこまで響くかはともかく、「宇宙で中国に絶対負けない」という強い意志と姿勢を示すことは間違いなく評価される。その意味で、国民の支持を得られると、トランプ大統領は踏んでいるようだ。

もう一つの理由は、月探査やその先の火星探査が米国の産業に大きな経済波及効果をもたらすことだ。まさにトランプ大統領の岩盤支持層の製造業に復活の機会を与える。2000年代に入ってからIT企業発のベンチャーなども続々と宇宙開発への新規参入を続けており、こうした層にも歓迎される。米国は航空宇宙産業で世界トップであり続けることへのこだわりが強い。製造業だけでなく、科学技術力のシンボルとしての意味合いもあるからだ。

■月を開拓すれば多くの仕事が生まれる

NASAは大企業、中小企業、ベンチャー企業を問わず、月や火星探査に必要な技術開発を企業に発注している。月はいわば新しい土地。それを切り開き、人間が滞在して活動できるようにするとなると、たくさんの仕事が生まれる。

1964年の東京五輪に向けてどんどん工事が行われ、街が発展していったことを振り返れば、月に基地を造るために、どれだけ膨大な需要が生まれるかが想像できる。それはまさに製造業をはじめとする産業界のチャンス。トランプ政権が力を注ぐ理由がよく分かる。そこにあるのは将来の月火星探査の意義というよりも、現世の利益だ。

8月に米航空宇宙局(NASA)がまとめた「NASAと月火星探査がもたらす経済効果」に関する報告書は、約2700ページにもわたる膨大なものだ。2019年度にNASAと月火星探査計画が全米にもたらした雇用、調達などの経済効果を州別にまとめている。計画が本格化すれば、経済効果はさらに大きくなる、と強調している。

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■「ドナルド・J・トランプ宇宙センター」ができるのか

また、月には水、アルミニウム、チタン、核融合発電の燃料になるヘリウム3などの資源があると言われ、中国がそうした資源を独占してしまうのではないかという懸念が取りざたされる。だが、月に行くまでの間に産業振興という大きな「資源」がある。米国はそれを着々と掘り起こそうとしている。

「米国を再び偉大に!」と言い続けてきたトランプ大統領。全米に広がるNASAの施設の中には、「ジョン・F・ケネディ宇宙センター」や「リンドン・B・ジョンソン宇宙センター」がある。派手で目立つことが好きなトランプ大統領だけに、ひょっとしたら月火星探査で名を馳(は)せ、「ドナルド・J・トランプ宇宙センター」の新設を狙っているのかもしれない。そんな冗談半分の話も、国内外の宇宙関係者の間でささやかれている。

■「まっすぐ月に行きたい」に戸惑う参加国

アルテミス計画には二つの柱がある。一つはトランプ大統領が熱を入れる月面に宇宙飛行士を送り、月面基地を造り、火星を目指すこと。もう一つは月の周りを周回する宇宙ステーション「ゲートウェイ」の建設だ。もともとNASAはゲートウェイ建設を長年にわたって検討してきた。月を周回する軌道に中継点を造り、そこを足がかりにして月へ、というわけだ。日本はこのゲートウェイに参加する。

ところが、トランプ大統領は、ゲートウェイに大反対した。アポロ計画の時には直接月へ行ったのに、なぜわざわざ中継点を経由する必要があるのか、まっすぐ月へ行けばいいじゃないか、という発想だ。ゲートウェイ計画を縮小し、ゲートウェイが完成する「2026年ごろ」の2年前に、地球から月へ直行して宇宙飛行士を月に立たせると決めた。月へ直行するのなら、中継点の役割は一体何なのか。日本をはじめ各国は戸惑っている。

■「中国、ロシアvs米国」の構図がここでも

この問題は日本にとって重要だ。宇宙産業育成は日本政府にとっても重要課題になっている。6月に日本政府が決定した宇宙基本計画では、「宇宙産業の規模を2030年代早期に倍増」と目標を定めた。アルテミス計画でも、日本企業の技術を使って、ゲートウェイへ物資輸送や、宇宙飛行士が滞在する居住棟の環境制御などをすることになっている。

ゲートウェイは日本の宇宙産業振興策と直結しているのだ。米国から突然はしごを外されるような事態になれば、影響は大きい。有人月探査のような大きな計画は日本一国だけではできない。米国などとの国際協力が欠かせない。これから宇宙開発を進めていくためにも、日本は米国の動向を注視し、何かあれば主張や交渉をしていく必要がある。

ゲートウェイに対する米国の振る舞いには、ロシアからも批判が出ている。10月にロシアの宇宙機関のトップが「米国中心過ぎる。(ゲートウェイに)大規模に参加することは控える」と指摘したと報じられた。以前からロシアはトランプ大統領の月探査政策に批判的な目を向けている。ロシアは中国と月面探査で協力することを合意しており、「中国、ロシア」対「米国」という構図が、月探査でも展開されるかもしれない。

こうしたこともあってか、米国も最近では、ゲートウェイにいったん立ち寄った上で月へ向かう案も検討している。日本など他国を慮(おもんぱか)っているのか、技術的な問題か、はたまた財政的な問題かは、はかりかねるが、緒に就いたばかりのアルテミス計画は、まだまだ波乱要因を含んでいることを示している。

■共和党は月、民主党は火星を掲げてきた

ここのところ、米国は政権が変わるたびに、次の目標が月か火星かで変化してきた。ざっくり言えば民主党は火星、共和党は月だ。

1989年にブッシュ(父)大統領は、月面着陸20周年の記念式典で、月や火星への有人探査構想を打ち出した。しかし巨額の費用などの問題から、米国内での反対が強く立ち消えになった。

2004年にブッシュ(息子)政権は再び同様の計画を打ち出したが、この時も国民の不評を招き、NASAは「おじいさんの時代の月着陸とは異なる」と違いを強調するのに躍起となった。

民主党のオバマ大統領は月探査を取りやめ、2030年代中頃に火星への有人探査を目指すと目標を変えた。トランプ大統領はそれを再び月へ戻した。11月の大統領選挙でトランプが勝利すれば「再び月へ」という流れは一層加速されるだろう。

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■バイデン氏が勝ったら計画はどうなる?

ではバイデン前副大統領が勝利したらどうなるか。火星は月よりはるかに遠い。地球から直行するのは技術的に難しく、巨額な費用がかかる。月を中継地点にしようと考える可能性は高い。NASAなどの専門家の間には、小惑星への有人探査を唱える人もいるが、よほど魅力を打ち出さない限り、目標に据えるのは難しい。

これまでに人類が蓄積してきた技術や知見からすると、どちらを強く打ち出すかの違いはあっても、「月」と「火星」は目標として生き続けるだろう。初の有人宇宙飛行から約60年になるが、選択肢はそう多くはないのだ。そして、全米に広がる大中小企業の産業振興を考えると、月や火星への歩みを簡単にやめるわけにはいかない現実もある。トランプ、バイデンどちらが大統領に選ばれても、月火星の探査はこれからもさまざまな形で残っていくだろう。

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知野 恵子(ちの・けいこ)
ジャーナリスト
東京大学文学部心理学科卒業後、読売新聞入社。婦人部(現・生活部)、政治部、経済部、科学部、解説部の各部記者、解説部次長を経て、編集委員を務めた。約35年にわたり、宇宙開発、科学技術、ICTなどを取材・執筆してきた。1990年代末のパソコンブームを受けて読売新聞が発刊したパソコン雑誌「YOMIURI PC」の初代編集長も務めた。
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(ジャーナリスト 知野 恵子)