■大規模なパレードは2018年9月以来、2年ぶりのこと

北朝鮮の動向が気になる。軍事パレードの演説で、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が声を震わせて涙ぐんでみせたからである。金正恩氏は自尊心が高く、したたかだ。なにか裏があるのではないだろうか。

写真=AFP/KCNA/時事通信フォト
2020年10月10日、平壌で、軍事パレードに際し演説する北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長[朝鮮中央テレビの映像より] - 写真=AFP/KCNA/時事通信フォト

10月10日、朝鮮労働党創建75周年記念日の軍事パレードが北朝鮮の首都平壌の金日成(キム・イルソン)広場で行われた。大規模なパレードは2018年9月の建国70周年行事以来、2年ぶりのことである。軍事パレードは午前0時から午前3時にかけての未明に開催され、これも異例だった。

未明開催は、「党の創設75周年の行事を特色豊かに執り行う」と決めた、8月13日の朝鮮労働党中央委員会政治局会議の方針を受けたものとみられ、暗いうちならばパレードでお披露目される最新兵器をライトを使って効果的に見せられるとの狙いもあったのだろう。中国からの指導によって、2008年に開催された北京五輪(第29回夏季オリンピック)の夜の閉会式をまねたのかもしれない。

■経済的な苦境を打開するため、慈悲深さを演出か

金正恩委員長は淡いグレーのスーツを身に着けて演説した。その演説の中で、公開の場で初めて涙を見せた。

「災害復旧の任務を終えても首都平壌には戻らず、進んで他の被害復旧地域に向かった愛国の国民に感謝の言葉を贈りたい」

金正恩氏は声を震わせてこう述べ、さらに集まった群衆に向かって「感謝」「ありがたい」と20回近くも繰り返した。「すまない」という言葉も使った。

涙ぐむ映像をテレビで見て沙鴎一歩は驚いた。「あの金正恩も涙するのか」と。金正恩氏は北朝鮮の最高尊厳で、決して頭を下げない指導者とされてきた。しかも己の保身のためにこれまで何人の命を奪ってきた。血も涙もない男。国民の生活よりも、一族の存続と繁栄しか考えない人物というイメージがあった。それだけにびっくりさせられたのである。

北朝鮮の事情に詳しい専門家らの間では、欧米による経済制裁や新型コロナ禍、台風の三重苦に焦り、党創建75年の節目に経済的に立ち直れない状況を少しでも打開する必要に迫られ、慈悲深さを演出したとの見方が出ている。沙鴎一歩もそう思う。金正恩氏の演技が巧みになっただけだ。涙声は演出にすぎない。

■休戦中の韓国にも「愛する同胞」「温かい気持ち」と呼びかけ

演説では、「休戦中」の韓国にこんなメッセージも送った。

「愛する南の同胞にも温かい気持ちを伝えたい。1日も早く新型コロナによる健康の危機が克服されることを強く願う」

なんと「愛する同胞」「温かい気持ち」である。とても金正恩氏のものとは思えない言葉だ。

軍事パレードでの演説で見られた異例の言動。ここで気になるのが、一時流れた「金正恩委員長の重体説」である。6月20日の記事「“北朝鮮の姫”金与正が『南北融和の象徴』をわざわざ爆破した本当の理由」でも指摘したように、金正恩氏が大きな手術で九死に一生を得たと仮定すれば、後遺症は出る。

後遺症は肉体だけではなく、精神的にも強く影響する。つまり金正恩氏が後遺症からストレスを受け、その結果として気弱になっているとも考えられるのだ。

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実妹の金与正(キム・ヨジョン)氏を自分の後継者として権力の一部を譲渡し、北朝鮮でナンバー2の地位に就かせたことも、それなら納得できる。金正恩氏も金与正氏も北朝鮮の体制を築いた金日成主席の孫であり、白頭山の血統に当たる。

■核・ミサイル開発の中止なくして経済制裁解除はない

拉致問題の追及で先陣を切り、その後も核・ミサイル開発を継続する北朝鮮を厳しく批判してきた産経新聞は、金正恩氏の豹変について10月13日の社説でこう書いている。

「金正恩同党委員長は演説で、経済制裁や新型コロナウイルス、自然災害による困難に直面していることについて『面目ない』と語り、北朝鮮国民や朝鮮人民軍に繰り返し感謝を表明した。名指ししての米国批判をしなかった」

そのうえで、「演説では強がりの姿勢がなかったともいえるが、それで日本が油断することは禁物だ」と主張する。見出しは「北の軍事パレード 日本への脅威を直視せよ」である。

沙鴎一歩は今回の産経社説の主張に賛成である。油断すれば、北朝鮮の思うつぼだ。核・ミサイル開発の中止なくして経済制裁解除はない。

■菅首相には金正恩氏との日朝首脳会談を実現してほしい

産経社説は続けて主張する。

「軍事パレードから分かるのは、北朝鮮が核・弾道ミサイル戦力を放棄せず、その強化に邁進するという頑なな姿勢である」
「強制収容所で自国民を残酷に弾圧する北朝鮮の独裁者が、いつもの罵詈雑言を控えたからといってだまされてはいけない」

やはり北朝鮮が目指すのは、「核・弾道ミサイル戦力の強化」以外にない。それゆえ、金正恩の演技と北朝鮮国家の演出に騙されてはならない。

さらに産経社説は訴える。

「菅義偉政権は、今も強化されつつある北朝鮮の核・ミサイルの矛先が日本に向いている点に危機感を持ってもらいたい。脅威の解消に向け外交、防衛の両面で努力すべきである」

安倍晋三前首相が金正恩氏に相手にされなかったからといって菅首相は諦めてはならない。まずは金正恩氏に直接会う日朝首脳会談を実現して、拉致問題の全面解決に結び付けてほしい。

■軍事に国家予算の多くを注ぎ込めば、国民の生活レベルは落ちていく

産経社説と同じく、保守的な論調の読売新聞の社説(10月13日付)も「『北』の兵器誇示 苦境打開には核放棄が本筋だ」との見出しを立てて、こう指摘する。

「(軍事パレードで)目を引いたのは、米国を射程に収めるとみられる新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)だ。2018年に公開されたICBMよりも、胴体部分が長く、直径が太かった。弾頭部も大きくなった」
「射程が伸び、複数の弾頭を搭載できるようになった可能性がある。発射実験は行われておらず、性能を見極めるのは難しいが、脅威の増大に注意が必要だ」

これだけ軍事に国家の予算を注ぎ込めば、国民の生活レベルは落ちていく。金正恩氏の政治は大きくゆがんでいる。

読売社説も核・ミサイルの開発断念を強く求める。

「金委員長は、『過酷で長期的な制裁』により、物資が不足している状況を嘆いた。だが、そもそも各国が制裁を段階的に強化してきたのは、北朝鮮が核実験を何度も強行したからだ」
「制裁解除への唯一の道は、核兵器と関連物質・施設を検証可能な形で廃棄し、弾道ミサイルの脅威を除去することである」

制裁を解除するには軍事力への異常な予算をカットするしかない。

■「核への固執が経済にしわ寄せを招いている」

さらに読売社説は書く。

「金委員長は、防疫や災害復旧への国民の協力に感謝を示し、生活難が続いているとして陳謝した。核への固執が経済にしわ寄せを招いているという肝心な点を語っていないのではないか」
「北朝鮮は、16年の党大会で打ち出した経済成長の目標を達成できず、来年1月の党大会で新たに5カ年計画を策定するという。経済再建を目指すのなら、軍事に偏った路線を見直さねばなるまい」

軍事偏重の国家運営が国民を苦しめている。なぜ、その事実を金正恩氏は国民の前で語ろうとはしないのだろうか。最後に読売社説はこう訴えている。

「米政府高官は、軍事パレードに『失望』を表明し、北朝鮮に非核化交渉に応じるよう促した。中国をはじめ関係国は、制裁を厳格に履行し、北朝鮮に核放棄を粘り強く働きかけねばならない」

制裁はかなり効いている。それは軍事パレードでの金正恩氏の言動からも分かる。ただ北朝鮮が頼る中国は制裁強化に甘く、裏で北朝鮮を援助しているとみられている。中国は隣国北朝鮮の核兵器の開発についてどう考えているのだろうか。

(ジャーナリスト 沙鴎 一歩)