2020年。今までの「当たり前」が、そうではなくなった。前触れもなく訪れた、これまでとは違う新しい生活様式。

仕事する場所が自宅になったり、パートナーとの関係が変わったり…。変わったものは、人それぞれだろう。

そして世の中が変化した結果―。現在東京には、時間が余って暇になってしまった女…通称“ヒマジョ”たちが溢れているという。

さて、今週登場するのはどんなヒマジョ…?

▶前回:「私がこの仕事してなくても、愛してくれる?」外出自粛で抜け殻となった女に、男の答えは…




「あの、今日の17時から予約している神崎絵里香ですが、16時からに変更できますか?...はい、ありがとうございます」

ーふぅ、よかった。

美容皮膚科の予約時間をずらせたことに、私はほっと胸を撫で下ろした。

さっきまで友人とお茶していたのだが、予定より早く解散となってしまったのだ。

ー茜、相変わらずだったなあ…。

その友達は、昔から「好きなことを仕事にするのが正解だ」という主張を曲げない。だけど、私には関係のない話だ。

転職も勧められたが、全く興味はない。

居心地の良い職場を飛び出し、転職活動をして、新しい環境へ身を置くなんてストレスそのものだ。わざわざ心を消耗させるより、今の会社で一般職を全うした方がいい。

ーそんなことより、私にはやるべきことがある。

私にとって今何よりも大事なことは、仕事ではない。綺麗になること、なのだ。

きっかけは元彼に言われた一言だった。

「絵里香って、化粧すると別人だよね。初めてスッピン見たとき、かなり引いたわ〜」

その日から、私は人前で自信をもって笑えなくなった。自分の素肌が美しくないことは、10代の頃から気にしていた。

でも、好きな人に指摘されたことで、人生において最大の悩みとなったのだ。


絵里香が美容に命をかけるようになったキッカケとは…。


自分の汚い肌を見て見ぬ振りをし、若いうちからカバー力の高いファンデで誤魔化し続けてきた自分に憤りを感じた。

これがクリアできなければ、仕事も恋も没頭できない。

今日、これから行う治療は、ダーマペンだ。毛穴にかなり効果があるが、施術後は赤くなる。

今までは定期的に韓国に行き、ソウルの江南で様々な施術をまとめて受けていた。韓国女優の透き通るような美肌に憧れ、あれが手に入るならと現地まで飛んでいたのだ。

しかし、世の中がこんな状況になってしまい、海外渡航が出来なくなったために韓国には行けなくなった。

最初は焦燥感に駆られ、同時にかなり落ち込んでいた。

だがある時、気づいたのだ。東京のクリニックにすれば、旅費や現地の食事代などが浮く分、多少高額な治療も給料とボーナスでなんとかなる。

それに今なら、ダウンタイムがあるハードな施術も怖くない。

マスクをしていても風邪だと心配されることのない生活は、美容医療に最適だ。目から下をマスクで隠すことができるから、今だったらどんな施術をしても人目が気にならないのだ。

だから、時間もお金も今は美容に費やしている。

ー私の選択は間違っていない。

そう自分に言い聞かせ、心の中で強く頷いた。

「神崎さん、こんにちは」

銀座にあるクリニックに到着すると、受付のスタッフが立ち上がって笑顔で挨拶をしてくれた。高級ホテルのロビーのようなアロマがふわっと香る。

“定期的なフェイシャルケア。今日はダーマペン♡”

クリニックの受付をさっと撮影し、親しい友達限定公開で、Instagramのストーリーズを上げる。

決してオープンにはできないけれど、仲の良い友達とはもっと美容の話がしたい。その気持ちからこうして投稿している。

「お肌、本当にきれいになりましたよね」




担当の看護師さんが、パウダールームへ案内しながら微笑みかけてくれた。

今日は下地も塗らず、クッションファンデを軽く乗せただけだ。ノーファンデとは言えないが、以前の化粧に比べたらだいぶ薄い。

「いえいえ、まだ全然です〜」

謙遜してそう答えたが、嬉しくてつい頬が緩む。

「じゃあ、洗顔が終わったら3番のお部屋でお待ちください」

Instagramを確認すると、友人の寧々からDMが来ていた。

“また整形しに行ってるの?”

ーいやいや...整形じゃないってば。

ちょっとイラっとしたが、波風を立てないようにさっと返信する。

“ううん、ダーマペンっていう毛穴に効果のある治療だよ”

寧々は、高校時代からの親友だ。そんな彼女は、"結婚後も夫には素肌を見せない"ことを徹底しているらしい。

化粧している時の顔が綺麗ならばそれでいいと、本人も彼女の旦那さんも思っているそうだ。

とても仲の良さそうな夫婦だが、疲れないのだろうか。素顔を見せないなんて、なんだか秘密を持ち続けるみたいだ。


美容熱が加速しヤミツキになっていた絵里香が、意外な行動に出て…


だけど、美容医療に夢中になる前の私も、寧々のようにリキッドファンデがないと生きていけなかった。

その頃の自分に教えてあげたい。肌はいくらでも綺麗になるんだということを。

「神崎さんは、自分の肌に自信が持てたら何をしたいですか?」

施術中、ぼんやりと過去を振り返っていたら、看護師に急に聞かれて口ごもってしまう。

ー私、どうしたいんだろう...

3年付き合った彼氏とは、あの一言がきっかけとなり、なんとなくギクシャクし始めた。そうしていつのまにか男女の関係ではなくなり、自然と心も離れ、別れることになってしまった。




それが半年前のこと。

そこからは恋する気も起きないまま、このステイホーム期間も重なり、美容欲が加熱してしまった。

「自信が持てたら、そうだな...やっぱり素敵な彼氏が欲しいです。やっぱり結婚もしたいし。でも顔のたるみがマシになったら、かな」

私は、正直に自分の気持ちを口にした。

「たるみですか?そういえば、私リフトしたんですよ。溶ける糸を頬に4本ずつ」

看護師さんはそう言ってマスクを下げ、顔を見せてくれた。たしかに以前より小顔になり、両頬がキュッと引き上がっている。

「どうですか。すごく自然でしょう?」

そう笑いながら話す看護師さんは、とても魅力的に見えた。

綺麗になりたい。アンチエイジングしたい。だから、医療の力を借りる。そして、恥じることなく患者に話してみせる。

その堂々とした態度が、かっこよかった。看護師さんはニコッと微笑んで、さらに続ける。

「私もたるみが気になってたんです。施術が終わってから、好きな人を食事に誘ったんですよ。自信が持てたから勇気出してみました」

「え、すごい...」

その瞬間、なぜが胸がぐっと熱くなった。

“私が美容にお金や時間をかけているのは自己満足。誰にも理解されなくて構わない”

どこかで、そう強がっていたからだろうか。共感してもらえただけでこんなに泣きそうになるなんて、自分らしくないのに。



施術後、パウダールームで髪を整えていると、表参道院が開院するというポップに目が止まった。

スマホでググってみると、「受付、看護師、カウンセラー募集」の文字。その時、ちょうど担当してくれた看護師さんが通りかかった。

「あの、カウンセラーって、未経験でも大丈夫なんでしょうか?」

「あ...!ちょっと待ってくださいね、院長に確認してきます」

ーいや、別に転職するわけじゃなくて...聞くだけ、聞くだけ。

そう自分に言い訳するように呟いたが、胸は高鳴っていた。

体の奥底からブワッと熱いものが沸き上がるような、不思議な感覚に襲われる。鏡に映っている自分が、まるで知らない誰かみたいに見えた。

怖気づいてしまいそうになるけれど、一方で、その何倍もワクワクする。

その時私は初めて、好きなことを仕事にする人の気持ちが理解できたような気がしたのだ。

見た目にも中身にも、自信が持てたなら。そして、いつか自分のことが好きになれたなら。もう一度誰かを好きになってみよう。

顔を上げ、もう一度鏡を見つめてみる。そこに映っている私は、なんだか心から笑っているように見えた。

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一緒にいる時間が増えた夫婦。寧々が抱える問題とは一体!?