8歳で自宅が全焼するという経験をした女性が、抱えてきた思いとは?(写真:筆者提供)

小学2年生のとき、両親が経営するレストランが火事に。自宅もほぼ全焼したけれど、いちばんつらかったのは、モノを失ったことではなかった。祖父母の家を出てからの車中泊は、むしろ楽しかった――。30代の女性から、こんなメッセージをもらいました。

昨年の夏、当連載で掲載した「沈没家族」で暮らした女性のインタビューを読んで、小学生だった頃の気持ちを強く思い出し、気づくと応募フォームから送信していたという沖井湊さん(仮名)。外出自粛が続く5月、西の街に住む彼女にオンラインで話を聞かせてもらいました。晴れわたる土曜の朝、窓の外は、あたたかな光に満ちていました。

「哀れまれている」ことに、なんとも言えない気持ちに

湊さんの両親は、ある街で飲食店を営んでいました。祖父が開業したレストランを父親が継いだのです。しかし、それは父の望みではありませんでした。


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「祖父は店にすごく誇りを持っていて、父に店を継がせようと東京へ修業に出したみたいです。父は本当は帰ってきたくなかったけれど帰ってきて、結婚したくなかったけれど結婚して。そうして生まれたのが私です。祖父母と父の仲もあまりよくなくて、父と母の仲もよくない。それは子どもの頃から感じていました」

火事が起きたのは、ちょうど元日でした。午前中は家族で祖父母の家に行きましたが、両親は翌日から店を営業するので、仕込みのため途中で店に戻っていたのです。出火の原因は、油鍋を加熱しすぎてダクト(排煙用の管)から火が上がったことでした。

この日、湊さんはいとこと遊ぶのに夢中で、親が店に戻ったことにも気づいていなかったそう。火事の連絡を受け、大人たちは大騒動になりましたが、湊さんは「あまりそのときの記憶がない」と言います。

「私が8歳で、弟は3歳と1歳くらい。親がいなくて大人が騒ぎ出すから、やっぱり弟たちも不安になって。ずっと泣いている弟をおんぶして疲れた、っていう記憶だけはあるんですけれど」

泣きやまない赤ん坊と幼児をひとりであやす、7歳の女の子。筆者など自分の子ども1人でも抱っこやおんぶでクタクタになったものですが、それを2人も、小学生がみていたのです。やむをえない状況とはいえ、大変だったでしょう。

「翌日か翌々日、(焼け跡に)ランドセルや教科書を取りに行って。図書館から借りた本を返さなきゃと思っていたことや、焦げたにおいの本を拾ってきたことは覚えています。

冬休みが終わって学校に行く前、たぶん担任の先生が『大変だったね』と言って、新しい洋服をプレゼントしてくれたんですが。『哀れまれている』というのをすごく感じて、なんともいえない気持ちになってしまって。かわいい服をもらってうれしい気持ちと、『そういう目で見ないで』と思った記憶が、すごくありますね」

先生が親切で洋服をくれたことは、もちろんよくわかっていました。それでも、他人から「哀れみ」の目を向けられることのつらさや違和感は拭えなかったのでしょう。火事のあと、いろんな人から「かわいそう」「大変だったね」と言われ続けていたこともあり、ある種、飽和状態になっていたのかもしれません。

しかし、その鬱屈した気持ちを、彼女が表に出すことはありませんでした。

「自分たちがおりこうにしていないと、火事を起こして責められている父と母がもっと責められる。だから、ずっと『いい子にしていなきゃ』と思っていました」

親を悪く言われたくない気持ちがあるから、我慢する

両親は、やはりと言うべきか、非常に厳しい立場に置かれていました。祖父が始めた大切な店を全焼させてしまい、かつ3人の幼い孫の世話も祖母に頼まざるをえない状況です。ただでさえ仲がよくなかった祖父母と両親は、ますます関係が悪化していました。

しかも運の悪いことに、保険業者の不手際で、火事が起きたのはちょうど火災保険が切れた翌日でした。そのため、消防の水をかぶって休業を余儀なくされた近隣の店への補償をめぐる問題も発生していたのです。

「寝ていても大人の話し声が聞こえてくるときがあって、子どもながらに『迷惑がられているんだ』ということはわかっていました。やっぱり親を悪く言われたくない気持ちがあるから、その頃はいっぱい我慢していたんだと思います。本当は『甘えたい』とか『弟の面倒を見たくない』と思っても、弟が泣いて騒いだら『お父さんとお母さんのしつけがなってない』って責められる。だから全部我慢する。

いまでも人の顔色をうかがう癖や、つらいことをつらいと表現できずに、人に甘えきれないところがあるんですけれど、あの頃のことが影響しているんだな、ということが最近わかってきました。『いい子でいない私、役に立たない私は、いらない私』、みたいな感覚が、ずっとありましたね」

湊さんの性格は、火事を境に大きく変わったといいます。弟が生まれるまでは一人っ子でしたから、両親にも祖父母にもそれはかわいがられて、子どもらしくのびのびと育っていたそう。しかし火事が起きてからは、つねに「お姉ちゃんだから、ちゃんとしなきゃ」と思うようになり、20代後半で実家を離れるまで、店のことでも何でも「自分がやらなきゃ」という思いが抜けなかったということです。

毎日がキャンプみたいで楽しかった車中泊の生活

火事から1年ほど、湊さんと弟たちは祖父母の家で暮らしていました。当時、両親がどこで生活していたかはわからないのですが、母親はよく子どもたちの世話をしに祖父母の家に来ていたそう。しかし、祖父母は「ここには来んでいい、新しい店の準備に行きなさい」と追い返すので、母親はつらそうでした。そんな母の姿を見る湊さんも、つらかったようです。

母親と子どもたちが車中泊をしていたのは、火事から約1年が経ち、店を建て直した後だったようです。この時期の記憶もおぼろですが、「お風呂に入れなかったから、店の流し場で身体を洗った」ことは覚えているそう。

「毎日キャンプみたいで楽しかったことは、よく覚えています。楽しいというか、祖父母のそばにいなくていい。それまで、ずっとストレスを感じていたので。母親も環境が変わって子どもといるようになって、つらそうじゃなくなって。大変だけど生き生きしている、というのは感じていました。

朝ごはんはいつも母が仕入れに行った朝市で、屋台のうどんやおにぎりを食べていました。私たちが毎朝現れるから、いろんなおじさん、おばさんからかわいがってもらって。ランドセルとか必要なものは全部車に乗っているから、そこから学校に行っていました。楽しい記憶ばっかりなんです。朝市の活気とか、野菜のにおいとか、断片的なことだけ、よく覚えています」

しかし、いくら楽しくても車中泊です。永遠に続けるわけにはいきません。店が完成して間もなく、母親は店の近くにアパートを借り、子どもたちはそこから学校に通うようになりました。行きは母が送ってくれますが、帰りは子どもたちだけ。湊さんは学校の近くにある保育園に弟たちを迎えに行き、30分以上バスに乗って、アパートまで帰っていました。

「弟たちを連れて、友達とちょっと原っぱで遊んだりしたあと、ほかの子はまだ遊んでいるんだけれど、『バスの時間だから』と言って弟をおんぶして、バスでアパートまで帰るんです。そういうとき、バスの運転手さんや周りの見ず知らずの人が『お姉ちゃん、えらいね、頑張ってるね』と言ってくれるのはうれしかったです。

親しい人のほうが『子どもにこんなことさせて、かわいそうに』と言ったりして、それが嫌でしたね。そう、親が責められている感じがして。私は親の役に立ちたいと思って我慢していたのに、そう言われたら、私の頑張りが無になってしまう、みたいな」

両親がこれ以上周囲から責められませんように――。火事が起きて以来、湊さんがいちばんに願ってきたことです。「子どもにこんなことをさせて」と思ってしまう大人の気持ちもわかりますが、当の子どもにとっては、最も言ってほしくない言葉だったのでした。

2度の転校も、非常に大きな出来事でした。1度目は火事から3カ月後、3年生になるときに祖父母の家の近くの小学校へ。2度目は5年生の途中から、母が借りたアパートの近くの学校へ。

「ストレスでしたね、友達が全部変わってしまうので。とくに5年生のときは、思春期に入る頃だし、新しい小学校になじめなかったので、学校に行きたくなくて、行きたくなくて。小学校に入った頃は私、だいぶ活発でやんちゃな子どもだったんですけれど、転校のたびに、どんどん引っ込み思案になっていきました」

なお、この頃父親がどこで生活していたかは、よくわからないそう。おそらく、店の一角に寝泊まりしていたのでしょう。父親はその後も離れて暮らしていましたが、湊さんが大学生のときに病に倒れてしまいます。それから亡くなるまでの間は、毎週のように家族が病室に集まり、いい時間を過ごせたということです。

あの頃の自分に「弱音を吐いていいよ」と言ってあげたかった

子どもの頃、どんなふうだったら、多少ともつらさを感じずに済んだか? 尋ねると、湊さんは「親でも先生でもない、話を聞いてくれる人がほしいと思っていた」と言います。

「とくに5年生で転校してからは、両親の不仲を目の当たりにするわけですよね。店は一緒にやっているけれど、明らかに仲がよくなくて、別々に住んでいる状態。学校も嫌だし、家も嫌。その時期がつらかったので、逃げ場所がほしかったなって思います」

こうだったらよかった、と思っているだけではありません。なんと湊さんは、子どものとき「いてほしかった大人」に、自らがなっていました。司書の資格を取って、中学校の図書室で働いていたのです。

「たぶん、誰も頼れなかったあの頃の自分に、『だいじょうぶ、あなたが弱音を吐いていい場所はここにあるよ』って言えるポジションになりたかったんですね。でも結局、正規職員になれなくて食べていけなかったから、いまは別の仕事をしていますが。でも本当は、お金はどうでもいいっていうくらいその仕事を続けたくて。

子どもたちも私が離職するときは泣いて見送ってくれて、親御さんからもお礼の手紙をいただいたりして。スクールカウンセラーやソーシャルワーカーの方につないだり、『そこまでは司書のやることじゃないだろう』ってところまで、ちょっと越権してしまっていたと思うんですけれど」

子どもたちにとっても、保護者にとっても、こんな大人が子どもたちの近くにいてくれたら、どんなに心強いでしょう。

「子どもたちは昼休みや放課後に(図書室に)来るんですけれど、1回、2回で話すわけじゃないんです。2カ月とか3カ月とかちょろちょろ来ながら、『おや?』と思うような言葉をぽろっと漏らす。つらくても子どもなりにプライドがあるから、そのつらさを簡単には大人に見せたくないんですよね。言えばやっぱり親が責められるっていうのもあるし。

学校司書っていろんな勤務の仕方がありますが、私はフルタイムでいられたのでよかったです。週に何回かだけとか、昼休みだけとかだったら、関係は築けなかったと思うので。司書じゃなくてもなんでもいいんですけれど、いつも『同じ人』っていうのが、子どもには大事かなって。そういう立場になれたらって思います」

オンラインの取材が終わって間もなく、湊さんから、取材の途中で泣いてしまったことを詫びるメールが届きました。でも正直なところ、私は少しうれしいような気持ちを感じていました。ちょっと彼女の役に立てたような気がしたからです。

子どもにも大人にも、あらゆる人に、「弱音を吐ける場所」があってほしいものです。

当連載では、さまざまな環境で育った子どもの立場の方の話をお聞きしています(これまでの例)。詳細は個別に取材させていただきますので、こちらのフォームよりご連絡ください。