当事者が振り返る40年前の「大誤審」 後編
前編:元主将が振り返る40年前の「カワコウ」
「あの時の瞳は澄んでいた」
埼玉県立川口工業高校には、そんな文言が記されたモニュメントが建っている。1977年夏の全国高校野球選手権大会出場を祝った記念碑だが、実は2019年に建てられたばかりだという。
「大脇(和雄)監督はあまり目立ちたくない人だったので、モニュメントの類いは作ってなかったんです」
川口工業OBの国府田等(こうだ・ひとし)さんはそう振り返る。
現在、川口工業野球部OB会を務める国府田さん(左から3番目:写真/国府田さん提供)
しかし、一時代を築いた大脇監督は2004年に逝去し、川口工業にとっては現在に至るまで1977年夏が史上唯一の甲子園出場になっている。当時の偉業を形に残すためにOB会が中心となって寄付金を集め、モニュメントを製作した。工業高校らしく、野球部OBの鋳物職人が格安の価格で引き受けてくれたという。
現在の川口工業野球部は部員が集まりにくくなっており、3年生部員はほとんどいない。だが、国府田さんらOBには特別な思いがある。
「野球部だけでなく、学校としても元気がないのはたしかです。でも、今まで日本の経済成長を支えて、世の中に貢献する人材をカワコウ(川口工業)は生み出してきました。その火を消したくない。そんな思いを持ったOBは多いと思いますよ」
国府田さんが川口工業を卒業して40年、密かにインターネット上で注目されたのは、国府田さんが高校3年生だった夏の埼玉大会決勝戦・熊谷商業対川口工業の試合映像だった。現在、再生回数は930万以上にのぼっている。
問題のシーンは1対2と川口工業がビハインドを追う5回表の攻撃で起きた。川口工業のランナーの盗塁を阻止しようと投じた、捕手の二塁送球を熊谷商業のショートが落球。空タッチにもかかわらず、二塁塁審は高々と右腕を掲げ、アウトコールをしたのだ。
この瞬間を国府田さんは一塁側ベンチから目にしたという。
「(ショートが)完全に落としていましたから。すぐに誤審だとわかりました」
大脇監督から「行け!」と命を受けたキャプテンの国府田さんは二塁まで走った。ただ、この時点では「あからさまに落としているのだから、抗議に行くまでもなく覆るだろう」と楽観的に考えていた。二塁に着いた国府田さんは塁審に聞いた。
「落としていますよね?」
しかし、塁審はかたくなに「アウトだ」と言って譲らない。
一度、ベンチに戻って大脇監督に報告した後、国府田さんは再び二塁に向かう。
「完全に落ちてますから、主審(球審)に確認してください」
塁審にそう伝えた後、ランナーの瀬川誠さん(当時2年)に「お前はここで待ってろ」と指示を出した。
審判4氏が集まって協議を始めたが、国府田さんの目には二塁塁審の口が「落としてた?」と動いているように見えた。
これで大丈夫だろう――。そう思った国府田さんだったが、すぐに非情な宣告が告げられる。二塁塁審が再びアウトコールをしたのだ。
スタンドからはファンが何人も乱入して、判定への不満をぶつけた。国府田さんにとっては誰も知らない一般のファンだったが、大脇監督はフェアグラウンドに入ろうとした人々の首筋をつかんで、スタンド方向へと押し返した。
3度目の抗議に向かった国府田さんだったが、内心では「もう覆らないんだろうな」と思いながら、二塁塁審に「本当にアウトなんですね?」と確かめた。塁審はやはり一度下した判定を変えることはなかった。
鷲見玲奈さんインタビューカット集>>
二死走者なしで試合が再開されると、直後に打者の坪山耕也さんがライト線に二塁打を放つ。国府田さんは苦笑混じりにこう振り返った。
「普段めったに打たないやつが打ったものだから、『誤審がなければ同点だったのに......』という動揺がチーム全体に広がってしまったような気がします」
ここから、川口工業はラフプレーを連発する。川口工業の守備中、サードフライを捕った後の内野陣のボール回しで、打者走者だった熊谷商業の選手のヘルメットに送球が当たってしまう。
ヘルメットに当てた相手が熊谷商業のエースだったこともあり、センターを守る国府田さんは「これはまずい」と感じたという。だが、故意かどうかと言えば、「当ててしまったのはウチの1年生ですし、狙って当たるものではないと思います」と擁護する。
さらに本塁上のクロスプレーで、川口工業の捕手が走者に突っかかるような乱暴なタッチをし、小競り合いが起きた。
攻撃中にも一塁走者の関叔規(よしのり)さんが、二塁ベースカバーに入ったショートにスパイクを向けるような危険なスライディング。熊谷商業の外野手が関さんに声を荒げて抗議する様子がテレビカメラに映し出された。
当の関さんも、冷静さを失っていたことを認めている。
「平常心を失っていて、ショートの選手に『(誤審の場面で)落としたなら言えよ』という気持ちをぶつけてしまったところはあったと思います」
準決勝の上尾戦では大立ち回りを演じた国府田さんだったが、決勝戦に関しては「状況をクールに見ていた」という。だが、怒りの矛先が勝利とは別の方向に向かう流れをキャプテンとして止めることはできなかった。
試合は川口工業の守備の乱れもあり、2対7で熊谷商が勝利する。しかし、川口工業には試合が終わってから審判への不満を漏らす者はいなかったという。
「5点差もつけられているわけですから、その差は実力です。完璧にやられた。もうしょうがないなと納得するしかありませんでした」(国府田さん)
「試合中は敵でしたけど、終わった後は熊商の選手に『埼玉の代表として甲子園に行くのだから、頑張れよ』と声をかけました。熊商の選手からも『頑張る』というような返事があった記憶があります」(関さん)
1980年の埼玉県予選を制した熊谷商 photo by Sankei Visual
むしろ収まらなかったのは、スタンドの熱狂的なファンだった。不満を顕にしたファンが収まるまで、審判員はしばらく球場から出られなかったという。
当時の審判員の消息を調べたところ、関係者によると二塁塁審はその後すぐ、高校野球の審判から身を引き、現在は亡くなっているという。存命の2名に取材を申し込んだが、「昔のことでもう『アウト』で終わったこと」「(二塁塁審が)亡くなられているし、話したくない」と断られてしまった。
ある高校野球審判員は、その心境をこうおもんばかる。
「決勝戦の審判を務めるということは、独特の緊張感のなかでジャッジをしなければいけないということ。その難しさは裁いた本人にしかわからないでしょう」
40年後の今、国府田さんは川口工業野球部OB会「ひょうたん会」の会長を務めている。「ひょうたん会」の名称は、大脇監督の口癖だった「締めるところは締まれ」に由来するそうだ。
野球部に絡む会合に出席するたび、国府田さんは奇妙な視線を感じるという。
「後輩がこちらを見て、『あれやばいよね』って言っている声がチラホラと聞こえてきます。保護者のお父さん、お母さんも動画を見ているようですね」
低迷する母校に歯がゆさを覚えることはある。だが、現場で奮闘する選手、指導者の姿を見ると、ただただ応援したい思いが湧いてくるという。
「12月にOBチームと現役チームで試合をするんですけど、プレーを見ていると野球に対して真面目だし、とにかく野球が好きなんだなと感じます。チームの強い、弱いはありますけど、根っこの部分は僕らも今の後輩も一緒なんだな......と」
60歳も見えてきた国府田さんだが、いまだにグラウンドに立ち、現役の草野球プレーヤーとして野球を楽しんでいる。コロナ禍による自粛期間中には、「コロナ明けにピッチャーに挑戦したい」と、トレーニングやシャドウピッチングに励んでいたという。そして、よく対戦するチームはなんと関さんが監督を務めるチームだ。
「僕のチームと関のチーム合わせて10数人、川口工業の野球部OBですよ。みんなもういい歳なんだけど、体力があります。それは基本的なことをやり続けた、監督の教えが残っているのかもしれませんね」
最後に国府田さんに聞いてみた。「あの動画が世に出たことで、生活面に不都合はありませんでしたか?」と。
国府田さんは首を横に振って「迷惑だとか、全然ありませんよ」と笑って、こう続けた。
「でも、なんであの動画がアップされたんですかねぇ。しかも、画質がすごくいいのが不思議なんですよねぇ」
甲子園にも出ていない、プロ野球にも入っていない、全国的に無名で、ちょっぴりやんちゃだった高校球児たち。40年の時を経ても、彼らは高校時代の誇りを胸に今を生きていた。