ランボルギーニ「ミウラ」の生産期間は5年、その台数はわずか750台(写真:ランボルギーニ)

1966年のジュネーブモーターショーおいてデビューを飾ったランボルギーニ「ミウラ」は、スポーツカーの歴史を変えた。それはまた、“スーパーカー”というカテゴリーが世界中から認知された瞬間でもあった。

スーパーカー、それは何とも魅力的であるが、曖昧な言葉でもある。その定義は難しいが、誰もがその存在に「あっ」という感嘆詞を発せずにはいられないオーラをもったモデルでなければならない。そして、皆を納得させる先進性とユニークな美しさを備えている。そんなスポーツカーだけが名乗れるものだと、筆者は考える。

そういう観点で見れば、ミウラはまさにその要素を兼ね備えた先駆者(車?)だ。


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V型12気筒エンジンを横置きミッドマウントするという革新性、そして新しいミッドマウントエンジンカーのスタンダードともなる、洗練されたスタイリング。それまでのレースカーをベースとしたスポーツカーや、豪華なクーペであるGT(グラントゥーリズモ)とは一線を画す、斬新なコンセプトの誕生であった。

世界中から絶賛されて誕生したミウラであったが、開発を担当していたジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニの2人は、その素晴らしき評判を前になぜか恐怖に打ち震えていた。彼らは類い希な才能の持ち主であったが、まだ20歳代の若者であり、クルマを1から作り上げることに関して、さしたる経験を持ち合わせているわけではなかったからだ。

そんな2人の力量拝見と、世界中の注目が集まったのだから無理もない。ミウラが絶賛される中で、2人は自分たちが行おうとしている試みの無謀さに改めて気づいたのであった。

フェルッチョが若い2人を起用した理由

「ミウラの開発にあたって、ベンチマークとなるクルマは何もなかった。V12という大型エンジンを横置きレイアウトする市販モデルなど誰も考えない代物だったし、すべてを1から設計し、必要なパーツを開発する必要があった。マーケティングからは完成を毎日のように急かされるし……」とスタンツァーニは語っている。


晩年のパオロ・スタンツァーニ(写真:ランボルギーニ)

しかし、普通ならそんな難題を若いエンジニアに任せるようなことはしないのではないか。オーナーでありCEOであったフェルッチョ・ランボルギーニは、クルマ作りの経験が浅いために、そんないい加減な判断をしたのであろうか。答えは「No」だ。

フェルッチョは自らレースカーやトラクターの開発に関わったことがあり、エンジニア的な思考をしっかりと持っていた。アウトモビリ・ランボルギーニ設立に当たって、フェラーリやマセラティなど当地のトップメーカーからすご腕を引き抜いてきたにもかかわらず、開発の要であるチーフエンジニアには20歳代の若者を採用したのにはワケがあった。

過去にとらわれず新しい冒険をするには、優秀で前向きな若者の考えを尊重すべきだというフェルッチョのフィロソフィーによる判断だったのだ。

もし、経験豊富なエンジニアであったら、多くのチャレンジが必要なミウラをこんな短期間で開発するなど、考えなかったはずだ。ダラーラとスタンツァーニという2人の若者は、まんまとフェルッチョの“罠“にハマったのである。

「ランボルギーニはレース活動をしない」の真意

ジュネーブモーターショー、そしてモナコGPでのデモンストレーションにおいて世界中から絶賛を受けたミウラは、注文が殺到した。中には数字が記されていない白紙の小切手を置いていくものすらいたという。早急な開発は、ランボルギーニの自動車事業立て直しのためにも、顧客からの要望に応えるためにも、ファースト・プライオリティであったことは間違いない。

若き2人のエンジニアは死に物狂いで開発を進めていったが、1番の問題は市販モデルとしてしかるべき快適性をいかに実現するかであった。


初期の「ミウラ」は快適性に問題を抱えていたという(写真:ランボルギーニ)

レースカーであれば、少しくらいの運転のしづらさや暑い車内も言い訳できるが、とてつもなく高価なこのミウラを手に入れる顧客たちはプロのドライバーではないし、助手席には着飾ったガールフレンドも乗せたいであろう。そういう素人のニーズにもしっかりと応える必要があった。スーパーカーとはそういうものなのだ。

少し話は逸れるが、皆さんは「ランボルギーニはレース活動を行わないことを社訓する」というエピソードを耳にされたことがないだろうか。その真偽は、「半分は正しいが、半分は間違っている」というのが筆者の意見だ。

ダラーラは前回の記事でも書いたように、当時フェラーリ、マセラティ、そしてランボルギーニと転籍を繰り返していた。それはなぜかと言うと、彼は何としてもレース活動に直接関わりたいという強い欲求を抱いていたからだ。それならば、レース活動を行わないと名言する会社に彼が移るわけはない。

事実、「もちろんレース参加の夢を入社時にフェルッチョと語り合っている。それで意気投合してランボルギーニへ入った」とダラーラは以前、筆者に語ってくれている。では、なぜランボルギーニはレース活動をしなかったのか。その答えを、スタンツァーニが語ってくれた。

「たしかにレースでフェラーリを打ち負かしてやろうと、フェルッチョが考えていたのは事実だ。しかし、実際にクルマを作り始めてみると問題点ばかりで、レースなどやっている場合ではなかった。それが大きな理由だが、実はある人物からの真摯な助言も大きかった」と。

その人物とは、ジオット・ビッザリーニであった。

フェラーリで「250GTO」をはじめとする名だたるスポーツカーの開発を担当した彼は、当時コンサルタントとしてランボルギーニの自動車事業に関わり、V12エンジンの開発も彼が行っていた。そのとき、フェラーリでの体験を基に、フェルッチョへレースへの参加がいかに大変で企業を疲弊させる大きな原因となるかを説いたというのだ。

そんな経緯から、フェルッチョはポジティブな社訓として、“あえて”レースへは参加しないと説いた。これも、フェルッチョ流のフェラーリに対抗するブランド、ランボルギーニとしてのプレゼンテーションであった。

ミウラが抱えていた構造的な問題

さて、ミウラの抱えていた問題点の1つは、横置きレイアウトエンジン独特の挙動がそのハイパワーによってより明確になってしまったことであった。

どうチューニングしても、市街地のドライブではトルク変動がはっきりと出てしまい、ぎくしゃくした。さらに横置き多気筒エンジンは、その調整が非常に難しかった。うまく運転するためには運転の腕も必要であったし、プロフェッショナルなメンテナンスも必要であったのだ。

もう1つの問題は、前述の快適性である。


横置きV12という特殊なレイアウトゆえ、課題も多かった(写真:ランボルギーニ)

クランクシャフトから発生した動力をギアボックスへと伝達する機構が大きなノイズを発生したのだ。それが、運転席のすぐ後ろにあるのだから、耳障りなことこのうえない。また、フロントにあるラジエーターから背中にあるエンジンを繋ぐパイプには熱湯が絶えず流れているから、室内は蒸し風呂のような状態になってしまった。これではユーザーからのクレームは必至である。

しかし、彼らはあきらめることなく、問題点を必死に改善していった。発売してからもその開発は絶え間なく継続され、「ミウラS」「ミウラSV」へと進化していった。SVが誕生する頃には、皆が太鼓判を押す素晴らしい完成度となっていたのだ。

「このような大きな反響を呼んだ名車が、たった5年で生産終了し、750台あまりしか作られなかったのは不思議ではないか」と前回書いた。最終的にはほぼ解消されたものの、このような欠点が災いして早期に販売終了となったのか、と思われるかもしれないが、それは必ずしも正しくない。そこには「ランボルギーニ・ブランドとしての問題があった」と、スタンツァーニは証言してくれた。

「本来なら継続して販売すべきだった。後継の『カウンタック』が20年にもわたって作り続けられたのとは対照的だ。こういう高付加価値モデルはあらかじめ順番を決めて、少しずつアップグレードしていく必要があった。そうして長期間販売しないと利益を生まない。ミウラが短命に終わった理由は、売れなくなったからだ。フェルッチョは独特の詭弁でいろいろな理由を付けたが……」とスタンツァーニ。

人気を博したミウラが、あっという間に売れなくなってしまった。そんな理由で販売を中止せざるを得なかったとは……。スタンツァーニに言わせると、それはこういうことであった。

S、SVと進化させるなら、セールスネットワークによって顧客をフォローし、旧モデルを下取るなどしなければならなかった。ところが、当時のランボルギーニにはしっかりとした販売網がなく、初期オーナーが手放した中古ミウラは“価格ありき”で転売が繰り返された。


事実上の最終モデルとなった「ミウラSV」(写真:ランボルギーニ)

そうした中古ミウラを手に入れたのは想定していた顧客層とは違った。それゆえ、ミウラにはあまり好ましくない“裏稼業を営む人々の乗るクルマ”というイメージができ上がってしまった、というのだ。

「SVは素晴らしいクルマだと従来の顧客は評価してくれたが、裏稼業を営む人々がミウラを得意げに乗り回し出すと、かつての顧客は離れてしまった。だから、最終モデルであるSVの販売には苦労した。後世に伝えられるべき素晴らしいモデルであることは間違いないのに、とても残念だった」とスタンツァーニは嘆いた。

なるほど、スーパーカーにとって重要なのは、ブランディングなのだ。どんなにデキが良くてもイメージが損なわれたなら、その輝きも消え失せてしまう……。そして、スタンツァーニはミウラで得た課題を胸に、次期ミウラ、つまりカウンタックの開発へと取り組んで行く。

また彼は、ミウラの完成とともに29歳という若さでアウトモビリ・ランボルギーニのCEO職を命じられてもいた。その才能はますます開花していくが、このあたりはまた続編として書いてみたい。

80歳の誕生日に夢を叶えたダラーラ

一方のダラーラは、ミウラの完成を待ってアウトモビリ・ランボルギーニを後にした。

レース界での仕事を模索し、フリーランスの道を歩み始めたのだ。世界のレース界をサポートするために、彼はまもなくダラーラ社を起こす。その後の世界を股にかけた彼の活躍は、周知の事実だ。

しかし、ダラーラにとってもやはりミウラは別格の存在であったようで、「いつの日か、ミウラでやり残したことを反映させた理想のロードカーを作りたい」という夢を持っていた。そして、長年の夢を彼の80歳の誕生日に実現させたのだ。


自らダラーラ「ストラダーレ」に乗るジャンパオロ・ダラーラ(写真:ダラーラ)

ダラーラ「ストラダーレ」と称す、「未来のミウラ」を彼は自前で開発し、製造販売を開始した。ミウラのイメージカラーでもある鮮やかなイエローをまとった、ダラーラの夢のクルマは、再び世界のクルマ好きを熱狂させている。素晴らしき伝説のミウラに関わる話は尽きないが、ここで一旦筆を置くことにしよう。