数ある剣術流派の中でも抜群の知名度を誇る「柳生新陰流」。新陰流を操った柳生一族は、徳川将軍家の信頼を得て兵法指南役を務めるまでに出世した。今回は、戦国期から江戸期にかけて繁栄した柳生家の歴史を【その1】に引き続き紹介する。

徳川家への仕官

1593年66歳の時、宗厳は剃髪、仏門に入り「石舟斎(せきしゅうさい)」と名乗る。当時の柳生家は、時の権力者であった豊臣秀吉に取り立てられることはなく、領地没収などの憂き目にあい困窮していたといわれている。

しかしその翌年、黒田官兵衛の嫡男である長政の取りなしによって、徳川家康と謁見する機会を得たことにより柳生家の運命は好転してゆく。

嫡男の宗矩と共に家康に謁見した宗厳は、新陰流・無刀取りを披露。人を生かす「活人剣」である柳生の新陰流に惚れ込んだ家康は、その場で宗厳に入門の誓詞を提出し二百石の俸禄を与えたとされている。

柳生宗矩(Wikipediaより)

 

宗矩の出世と大名への列席

宗厳はすでに老齢であった自身に代わり、息子の宗矩を推挙し家康に仕えさせた。宗厳自身は柳生庄に帰りその後も江戸の宗矩と連携し、1600年の関ヶ原では徳川軍に尽力した。1606年、柳生庄で死去。享年78。

後を継いだ宗矩は、1601年徳川2代将軍徳川秀忠の兵法指南役となり、関ヶ原での功績と合わせ3000石の旗本となった。このとき、故郷の大和柳生庄の土地を取り戻している。

1621年には秀忠に続き、3代将軍家光の兵法指南役を努め新陰流を伝授した。宗矩は家光からの信任が厚かったとされ、1629年には幕府初の惣目付に就任、1636年には知行1万石に達し、大名として「大和国柳生藩」を立藩するまでに至った。1646年、江戸で死去。享年76。

宗矩は柳生家発展の立役者であり、宗矩の存命下において柳生家は最盛期を迎えた。一介の剣士から大名にまで上り詰めたのは、日本の歴史上宗矩ただ一人とされている。

柳生藩の存続

宗矩の死後、家督は息子である長男の「柳生三厳(十兵衛)」、三男の「柳生宗冬」、四男の「列堂義仙(れつどうぎせん)」の3兄弟に分知された。

中でも長男の三厳(十兵衛)は著名な人物であり、現在も映画や小説などで題材として登場している。眼帯をした隻眼の侍というイメージが定着しているが、隻眼を証明する歴史的根拠は見つかっていない。

柳生家の藩主は代々徳川将軍家の剣術指南役を務めた。その後も大名家として存続し、初代の宗矩から数えて13代目の「利益」の代に明治維新を迎えるまで柳生藩を拝領した。

新陰流は明治以降も1921年まで宮内省において伝習がなされた。太平洋戦争を経て、現在はいくつかの系統が存在し「新陰流」を伝えている。