会津(あいづ)藩と言えば、幕末の戊辰戦争における最大級の激戦地として知られ、旧幕府軍・新政府軍ともに甚大な犠牲を払いました。

こと不退転の覚悟で臨んだ会津藩では、女性や子供、高齢者に至るまで志願したため、白虎隊(びゃっこたい)の少年たちや娘子隊(じょうしたい)の婦人たちなど、多くの悲劇が生み出されています。

今回はそんな娘子隊の一員として活躍するも、悲劇的な末路をたどった神保雪子(じんぼ ゆきこ)のエピソードを紹介したいと思います。

美男美女のおしどり夫婦、儚くも幸せだった日々

雪子は江戸時代末期の弘化二1845年、会津藩士・井上丘隅(いのうえ おかずみ)の次女として誕生。井上家は600石の家禄をとる名門(※会津藩内に600石以上の家禄をとる家は34家しかなかった)で、丘隅は大組物頭を務めるトップクラスの重臣でした。

幼いころより姉・ちか子ともども美人として評判が高く、文久二1862年ごろ、会津藩内でも将来を嘱望されていた若手のホープ・神保修理長輝(じんぼ しゅり ながてる)に嫁ぎます。

神保修理との婚礼(イメージ)。

修理は天保五1834年、会津藩の家老・神保内蔵助利孝(くらのすけ としたか)の長男として誕生。幼少時から文武に長けた秀才と謳われ、雪子とは11歳差(雪子18歳、修理29歳)ではありましたが、閑雅な趣を湛えた端整な容貌で、雪子に引けをとらない美男子でした。

互いに申し分のない相手となれば、仲が睦まじいのも自然な運び。誰もが羨む鴛鴦(おしどり)夫婦だったそうですが、世は風雲急を告げる幕末とあって、ずっとイチャイチャばかりもしていられないのが世の定め。

文久二1862年8月、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が京都守護職を命じられると、その赴任に随行することになりました。

「近ごろ、京の都は不逞浪士が跋扈して、物騒と聞き及んでおりますれば、どうかご無事でお役目を果たして下さいまし」

現代なら「そんな危険な仕事、断ってよ!あなたに何かあったら、私の生活はどうなるのっ!」などと大反対の奥方も多いかも知れませんが、武家の女性たちはどれほど内心で心配していようと、夫や父、兄弟たちが武士としての務めを果たすことをこそ尊重しました。

「……あぁ、行って来るよ」

顔で笑って心で泣いて……そんな女性たちの本音を察しているからこそ、武士たちはますます愛情を深め、より一層務めに精進するのでした。

夫や父たちの身を案じる雪子(イメージ)。

「父(井上丘隅も京都へ随行)のことも、よろしくお頼み申し上げます」

「大丈夫。きっと一緒に、無事帰って来るよ」

修理はそう言って、雪子の頬を優しくなでましたが、これが今生の別れになろうとは思っていなかった事でしょう。

京都で君命に奔走した修理、長崎で世界に開眼するも……

さて、国許で夫と父の身を案じる雪子を想いながら、修理は君命を奉じて国家のために奔走します。

京都の洛中洛外を視察して治安維持に努め、朝廷との折衝に当たるなど、多忙な日々を送る中で、やがて会津藩お預かりとなった壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ。後の新選組)とも連携・交流したようです。

元治元1864年7月19日「禁門の変(長州藩によるクーデター)」では義父や父と共に天王山に立て籠もった真木和泉守保臣(まき いずみのかみ やすおみ)らを討伐。薩摩藩の支援もあって、長州藩の撃退に成功しました。

禁門の変にて御所を守り、陣頭指揮を執った松平容保(会津公)。

実戦を経験したことで、容保は軍制を近代化する必要を実感。慶応二1866年には修理を長崎に派遣し、西洋式の軍制や教練を視察させます。この時に学んだノウハウを元に編成された部隊の一つが、後に悲劇を生んだ白虎隊でした。

その後も主君からの信頼篤く、忠勤に励んだ修理でしたが、世に討幕の機運が高まっていった慶応三1867年10月、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は討幕派との戦争を回避するべく、朝廷に政権を返上します。

これが世に言う「大政奉還(たいせいほうかん)」ですが、あくまで「徳川討つべし」という主張はやまず、これを受けて会津藩でもこのまま妥協を続けるか、それとも一戦交えるか、意見が分かれました。

「修理よ、そなたの意見も聞きたきゆえ、急ぎ上洛せよ」

急ぎ長崎から京都へ呼び戻された修理は、これまで自分が見聞きした限りを話した上で、意見を具申します。

「今は幕府だ朝廷だと争っている場合ではございませぬ。日本国が一丸となって力を蓄え、欧米列強に伍する旨を説くべきと存じまする」

会津藩の多くが主戦論を叫んでいる中、長崎での滞在を通じて世界情勢を見据えた修理の意見は空気を読まない以外の何物でもなく、かつて修理に並ぶ俊才と称された若きホープ・佐川官兵衛直清(さがわ かんべゑただきよ)と真っ向から対立します。

「修理よ、そなたはむざむざ怨敵に膝を屈せよと申すか!長崎で毛唐(けとう。主に白人)どもに何を吹き込まれた!」

修理と官兵衛が丁々発止の激論を繰り広げる中、会津の世論は徹底抗戦に固まっていき、幕府もまた、戦争に追い込まれていったのでした。

【続く】

※参考文献:
阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』歴史春秋社、2010年1月
中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』文藝春秋、2012年11月
宮崎十三八・安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年1月