中日、西武などで活躍、日本ハムや中日などでコーチも務めた平野謙氏

 昭和から平成の球史を鮮やかに彩った名外野手は、意外にも“投手の落第”がきっかけで生まれた。中日、西武、ロッテの計19年間でゴールデングラブを9度受賞し、日本ハムや中日などでコーチも務めた平野謙氏。自身の代名詞にもなった華麗で堅実な守備の裏には、常識にとらわれない独自の発想があった。

 愛知・犬山高から名商大を経て、1978年に飛び込んだプロの世界。「投手・平野」の投球は、直球とカーブの組み合わせが主だった。「指が短いから落ちるボールがなくて」。覚えたパームも打者の目先を変える程度の質だった。加えて、学生時代に右肘に死球を受けた影響で状態が万全にならないことも少なくない。「即座にクビになることは見えていました」。ルーキーは冷静に自身の力量を見定めていた。

 それでも1年目の終盤にウエスタン・リーグで2勝。地元の新聞には「有望株だ」と書かれて意気に感じたが、首脳陣の思惑とは違った。2年目の春になり、外野手転向の打診。「もうちょっとピッチャーをやりたいという気持ちが強かったですね」。後ろ髪を引かれる思いだったが、外堀は埋められていく。紅白戦で外野を守ったり、投球練習の時間が十分に確保できなかったり……。「徐々にピッチャーの練習が省かれていく感じでした」。すでに両親を亡くしていた平野氏は、姉夫婦や恩師に相談。自身が抱く投手への未練とは裏腹に、皆から全く同じことを言われた。「クビじゃなくてよかったね。野手に変われるんだったら」。

 たった1年での方向転換。受け入れがたい現実にも思えるが、「投手一筋」ではなかった平野氏の野球人生も幸いした。中学時代はサッカー部で、高校から始めた野球も「ボールの握り方も、スライディングパンツも知らなかった」。犬山でひとつしかなかったスポーツ用品店に行き、とりあえず用具一式を購入。「最初に買ったグラブは、どこのポジション用だったっけ?」と笑って振り返る。高校、大学とエース投手だったが「打つのも好きでした」とも。柔軟な姿勢はプロに入っても同じで「自分は野手に変わるんだ。よし、野手やろう」とすぐに前向きになったという。

当たり前だとされていた左足の前での捕球に違和感を覚え、右足前の“平野式”に

 他の外野手に混じってノックを受ける日々。「守るのは好きでしたから。自信はありました」。捕球から送球、捕球から送球……。繰り返しの中で、平野氏はひとつの違和感を覚えた。左足を前に出した姿勢で捕球し、送球に繋げるのが当たり前だとされていたが「足は右足が前の方が捕りやすい。(投げるまで)2歩は違う」。当時2軍コーチだった井出峻・現東大野球部監督から「逆だぞ」と言われても、確信があった。「左足が前だと膝が突っ掛かるし、ボールから目が離れることが多くなる」。捕ってからの速さを示してみせ、周囲を納得させた。

 たった2歩でも、外野手にとっては生死をも分ける。「5メートルくらいは違うんじゃないですかね」。当然、走者に与えるプレッシャーは大きくなる。いつしか“平野式”は主流となり、チームメートだった彦野利勝氏ら後輩から教えを請われることも多かった。「今では、どっちかというと右足前が主流になっていますよね」。平野氏は胸を張る。

 1軍に定着した1982年、初めてゴールデングラブ賞(1972〜85年まではダイヤモンドグラブ賞)に輝いた。以降は1985、86年と2年連続で獲得し、西武に移籍した1988年からは6年連続で受賞。秋山幸二と鉄壁の右中間を形成し、黄金時代のチームを支えた。プロ人生の活路を見出した外野で、自らを貫いて掴んだ名手の称号。「自分のやり方が認められなかったら、ゲームに出られなかっただけでしょう。でも、それを変えるつもりもなかったし、受け止めてくれるコーチでした」。数えきれないほどの好守は、いまもファンの胸に刻まれている。(小西亮 / Ryo Konishi)