98年フランス大会から6度のワールドカップに出場している日本代表。チーム状態も結果も大会ごとに異なるが、全世界が注目し、プレッシャーのかかる大会でチームを力強くけん引したのがキャプテンの存在だ。井原正巳(柏ヘッドコーチ)をはじめ、森岡隆三(解説者)、宮本恒靖(ガンバ大阪監督)、長谷部誠(フランクフルト)と過去4人が大役を務めているが、それぞれ困難や苦境に直面し、自分なりのアプローチで解決策を見出してきた。それぞれのチームにおける歴代キャプテンのスタンスや哲学、考え方をここで今一度、振り返っておきたい。
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真っ青に染まった埼玉スタジアム。そしてかつてないほどの異様な熱気と興奮……。2002年6月4日。日本代表にとって2度目のワールドカップが幕を開けようとしていた。
3戦全敗の屈辱を味わった98年フランス大会から4年。フィリップ・トルシエ監督率いる日本は、若くフレッシュな集団に変貌を遂げていた。98年経験者は23人中わずか8人。半数以上が2000年シドニー五輪を経験した25歳以下のメンバーだった。
「キャプテンは自分だ」と口癖のように語っていた指揮官は特定のキャプテンを決めずにここまで来たが、ベルギーとの大一番では森岡隆三(解説者)に黄色のマークを託した。彼は2度目のアジア制覇を成し遂げた2000年アジアカップ(レバノン)、フランスに善戦した2001年コンフェデレーションズカップ日韓大会の決勝でも主将を務めた実績があり、エキセントリックなフランス人監督にも物怖じせずに意見をぶつけられる勇敢さを備えていたからだ。
名波浩(解説者)も「当時、トルシエと隆三はうまくいっていなかった。キャプテンとして選手の意見を吸い上げて主張していたしね」と冗談交じりに語ったことがあるが、気難しい監督と真っ向から議論するのは難易度の高いこと。それでも自らの考えを曲げず、しっかりと口にできる森岡だからこそ、大舞台のリーダーに相応しいと認められたのだ。
最年長・34歳の中山雅史(沼津)から最年少・22歳の市川大祐(清水アカデミーコーチ)の中間に位置する彼は、チームバランスを考えても理想的な統率役でもあった。同年代には川口能活(JFAアスリート委員長)や中田英寿、松田直樹のような個性の強い面々が揃っていたが、彼らに対してもフラットに接することができた。その人間力もチームにとって欠かせないポイントとなったはずだ。
そしてもうひとつ大きいのは、看板戦術である「フラット3」の司令塔という部分。2011年に松田直樹が急逝した際に来日したトルシエが「フラット3は森岡、松田、宮本(恒靖=G大阪監督)、中田浩二(鹿島CRO)にしかできない戦術」と断言していたが、それだけ彼らには絶大な信頼を寄せていた。中でもラインコントロールを託される森岡の存在価値は大きかった。「監督がトルシエじゃなきゃ、俺は呼ばれていなかった」と本人も述懐していたが、彼らは目に見えない強い絆で結ばれていたのだ。
ところが、森岡にとって夢舞台であるはずのベルギー戦は悲劇の場となってしまう。鈴木隆行(解説者)と稲本潤一(相模原)のゴールで2-1とリードしていた72分、相手との接触から左足裏がズキズキと痛み出し、ひざ下の感覚がなくなるというアクシデントが発生したのだ。ドクターはいったんOKを出したが、違和感は拭えず、自ら交代をアピールする羽目になった。そこからフラット3の中央は宮本が担うことになり、森岡はピッチから遠ざかった。
初戦を2-2の引き分けで終えたことには安堵感を覚えたという森岡だったが、満足にプレーできない状況は続いた。さまざまな病院へ出向いて検査しても原因を突き止められず、あらゆる治療も効果はない。チームは横浜でロシアに1-0で勝ってワールドカップ初勝利を挙げ、活気に満ち溢れているのに、自分はキャプテンらしい仕事もできない……。苛立ちは募る一方だった。練習中のレクリエーションゲームで「ゴール決めろよ」と冗談交じりに言ってきた小野伸二(琉球)に激高してしまうほど、メンタル的に追い込まれていた。
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真っ青に染まった埼玉スタジアム。そしてかつてないほどの異様な熱気と興奮……。2002年6月4日。日本代表にとって2度目のワールドカップが幕を開けようとしていた。
3戦全敗の屈辱を味わった98年フランス大会から4年。フィリップ・トルシエ監督率いる日本は、若くフレッシュな集団に変貌を遂げていた。98年経験者は23人中わずか8人。半数以上が2000年シドニー五輪を経験した25歳以下のメンバーだった。
「キャプテンは自分だ」と口癖のように語っていた指揮官は特定のキャプテンを決めずにここまで来たが、ベルギーとの大一番では森岡隆三(解説者)に黄色のマークを託した。彼は2度目のアジア制覇を成し遂げた2000年アジアカップ(レバノン)、フランスに善戦した2001年コンフェデレーションズカップ日韓大会の決勝でも主将を務めた実績があり、エキセントリックなフランス人監督にも物怖じせずに意見をぶつけられる勇敢さを備えていたからだ。
名波浩(解説者)も「当時、トルシエと隆三はうまくいっていなかった。キャプテンとして選手の意見を吸い上げて主張していたしね」と冗談交じりに語ったことがあるが、気難しい監督と真っ向から議論するのは難易度の高いこと。それでも自らの考えを曲げず、しっかりと口にできる森岡だからこそ、大舞台のリーダーに相応しいと認められたのだ。
最年長・34歳の中山雅史(沼津)から最年少・22歳の市川大祐(清水アカデミーコーチ)の中間に位置する彼は、チームバランスを考えても理想的な統率役でもあった。同年代には川口能活(JFAアスリート委員長)や中田英寿、松田直樹のような個性の強い面々が揃っていたが、彼らに対してもフラットに接することができた。その人間力もチームにとって欠かせないポイントとなったはずだ。
そしてもうひとつ大きいのは、看板戦術である「フラット3」の司令塔という部分。2011年に松田直樹が急逝した際に来日したトルシエが「フラット3は森岡、松田、宮本(恒靖=G大阪監督)、中田浩二(鹿島CRO)にしかできない戦術」と断言していたが、それだけ彼らには絶大な信頼を寄せていた。中でもラインコントロールを託される森岡の存在価値は大きかった。「監督がトルシエじゃなきゃ、俺は呼ばれていなかった」と本人も述懐していたが、彼らは目に見えない強い絆で結ばれていたのだ。
ところが、森岡にとって夢舞台であるはずのベルギー戦は悲劇の場となってしまう。鈴木隆行(解説者)と稲本潤一(相模原)のゴールで2-1とリードしていた72分、相手との接触から左足裏がズキズキと痛み出し、ひざ下の感覚がなくなるというアクシデントが発生したのだ。ドクターはいったんOKを出したが、違和感は拭えず、自ら交代をアピールする羽目になった。そこからフラット3の中央は宮本が担うことになり、森岡はピッチから遠ざかった。
初戦を2-2の引き分けで終えたことには安堵感を覚えたという森岡だったが、満足にプレーできない状況は続いた。さまざまな病院へ出向いて検査しても原因を突き止められず、あらゆる治療も効果はない。チームは横浜でロシアに1-0で勝ってワールドカップ初勝利を挙げ、活気に満ち溢れているのに、自分はキャプテンらしい仕事もできない……。苛立ちは募る一方だった。練習中のレクリエーションゲームで「ゴール決めろよ」と冗談交じりに言ってきた小野伸二(琉球)に激高してしまうほど、メンタル的に追い込まれていた。
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外部リンクサッカーダイジェストWeb