―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―

◆ビジネス業界が「常識」にした香典の半返し

 去年の12月17日、父が死んだ話の最後です。

 先週は、「半返し」という風習が、日本の伝統でもなんでもなくて、1970年代に生まれたものだという話を書きました。

 じつは、葬儀会館では、「年末の忙しい時期ですから、その場で『半返し』はいかがですか?」と言われました。意味が分からず「その場というのは?」と聞き返すと、「ですから、香典を受け取ったらその場で『半返し』の品物を差し上げるのです」と葬儀会館の人は説明しました。

 葬式に来て、香典を出し、「このたびは御愁傷様でした」と語る参列者を前に、香典を開けて、金額を確認し、半額に相応しい品物をその場で渡すということだと分かり驚いていると、「年末の忙しい時期では、別に珍しいことではありません」と言われました。驚いたまま「いえ、それはしません」と断りました。

 もちろん、「何かお礼をしたい」というのは、人間の自然な心理だと思います。

 結婚式の御祝儀の「返し」である引出物は、金額に関わらず一律で、事前に準備が可能で、めでたい陽気な精神状態で行われます。

 でも、葬式の「半返し」は、葬式が終わった後の哀しみの精神状態の時に、一人一人、金額を確認し、それぞれの「半額」を決定し、品物を選び、郵送の手続きをするのです。

 あきらかに、「半返し」というビジネス業界が定着させたルールは、遺族を苦しめていると僕は思います。

 遺族をねぎらい、葬式の足しにと思って出した香典が、「半返し」という煩雑な手続きを生み、遺族を苦しめているのです。

 結婚式の場合は、御祝儀の返しである引出物の中身について、いろいろと話す人は多いです。それなりに包んだのに、この品物なの!? なんて色々と思うのでしょう。めでたい席だからこそ、文句も言いやすいのかもしれません。

 ですが、僕は香典の「半返し」の品物が不満だと文句を言う人をあまり聞いたことがありません。

 基本的に、「半返し」は葬式の後、四十九日の法要が終わって送られます。そのタイムラグが「今頃、お茶を送ってくれるのか。気をつかわなくていいのに」とさえ思うのです。

「半返し」をマナーだ伝統だ礼儀だと仕掛け、定着させたビジネス関係者に対して、僕は怒りさえ感じます。

 なんでも商売にすればいいってもんじゃない、と思うのです。

◆父がしてくれた死と出会うレッスン

「口臭除去」は、20世紀の真ん中辺りに、アメリカで化粧品会社が行なった「誰もそれを教えてくれない」というキャンペーンの言葉から始まりました。それまで「口臭を気にする」という概念はありませんでした。

 今、テレビでは、「部屋の臭い」を消そうというCMが連発されています。少し前は「体の臭い」でした。友達を自宅に招く時、家具やカーペットにシュッシュッしまくる風景はどこまで「常識」になっているのでしょうか。

 なんでも商売にすればいいってもんじゃない、と思うのです。

 でも、香典の「半返し」が問題だと思っても、死がすべて金額に換算されても、人生の中で何度もないので、人は我慢してやりすごしていくのだと思います。

 本当は、見直さなければいけないことなのに。

 僕が最初に見た死体は、祖父のものでした。小学生でしたが、棺桶に横たわる姿を、今でも強烈に覚えています。

 死というものに直に接した初めての体験でした。ああ、死というものがあるんだ、空想でも物語でもないんだ、それは事実なんだ。現実に人は死ぬんだ、ということをまざまざと理解しました。

 大往生した祖父から、死を教えられたことが良かったと今では思います。不慮の事故でもなく、誰かの自死でもなく、最初の死が、一番年長の祖父だったことが、子供にとっての正しい「死と出会うレッスン」だったと思うのです。

 今回、子供達が父親の死体を見ました。一瞬、息を止め、身体が固まりました。生まれて初めて見た、リアルな死体でした。

 父親は最後に、孫に対して正しい「死と出会うレッスン」をしてくれたと思いました。手を合わせる子供達の後ろで、「じいちゃんの最後の孫孝行」に深く感謝しました。

―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―