旧国立競技場は空が広く感じられるスタジアムだった。特に屋根に覆われていなかったバックスタンドは、ピッチが遠く、臨場感より開放感が勝るところに最大の特徴があった。サッカー観戦に適したスタジアムとは言えなかったが、神宮球場にも通じるそのアウトドア感に、眺望への不満を忘れさせる大きな魅力を感じた。

 バックスタンドの背後に広がる神宮外苑と同じ空間にいるようだった。その都会のオアシスを感じさせる独得の“気”が染み入るように入り込むスタンドは、試合が少々つまらなくても納得したくなる居心地のいい快適空間と化していた。聖地たる所以だった。

 その魅力が最大限に発揮されたのが元日の天皇杯決勝だった。バックスタンド上階から新宿の高層ビル群が一望できる、まさに都心の一等地にありながら静謐で厳か。大都会東京が静まりかえる異次元空間の中で行われる一戦であるところに天皇杯の魅力はあった。プラスアルファの魅力を実感することができた。

 現国立競技場は、その天皇杯決勝(神戸対鹿島)をこけら落としのイベントにした。それぞれを比較するにはもってこいの一戦だった。

 どちらがサッカー観戦に適したスタジアムかと問われれば、それは現国立競技場となる。1階席はともかく、2階席、3階席の眺望は、旧国立競技場の上階スタンドより格段によかった。視角は急で、ピッチをのぞき込むように俯瞰する形になるので、ピッチは自ずと近くに感じられた。

 もっともこれは、そうではなかったとしたら大変なことだった。2階席、3階席の視角が、旧国立競技場と同レベルだったとすれば、旧国立競技場にほんの少し手を加えれば済むことだ。これは世界のスタンダードを満たしたに過ぎない、普通といえば普通の話になる。

 問題は、そうした世界のスタンダードをベースにしながら、聖地と言われた旧国立競技場の魅力をどこまで盛り込むことができるかにあった。

 神宮外苑の気をどの様にして取り込むか。一言でいえばそうなる。とはいえ、求められていた様式は屋根付きスタジアムだ。スタンドが屋根で覆われれば、密閉性は必然的に増す。失われがちな開放感を、どこまで残すことができるか。

 ヴィッセル神戸が大晦日に行った前日練習は、観客を入れずに行われたので、現国立競技場の素の部分を探るいい機会だった。その練習風景を眺めながら、五感を研ぎ澄ましてみたとき、真っ先に違和感を覚えたのは空気の重たさだった。グリーンのピッチ上は、なんとも言えない圧迫感に覆われていた。

 理由は木材で組まれた屋根の造りにあった。屋根が半端ではない量の木材に下支えされているビジュアルに、重たさを感じてしまうのだ。しっかり過ぎるほど頑丈に組まれているので、屋根の透明性を遮断することにつながり、抜け感を悪くしている。密閉性に拍車を掛けているという印象だ。

 木の温もりを感じさせるスタジアムとは、現国立競技場のキャッチフレーズで、メディアはその宣伝文句をそのまま伝えているが、木からイメージするのは温もりだけではない。ポジティブな要素もあるが、ネガティブな要素もある。屋根を支えるおびただしい量の木は、神宮外苑という都会のオアシスの気を可能な限り取り込もうとした時、邪魔な存在に見えて仕方がない。屋根は重たさではなく、軽さ、快活さ、そして透明感を表現した、もっとシンプルな構造の方が、外との関連性は生まれやすいーーとは思わなかったのだろうか。

 別名、神宮外苑の杜にちなみ、杜のスタジアムとも言われるようだ。それが、杜の中に立つスタジアムというコンセプトなら文句なしに賛同したくなるが、現国立競技場はスタジアム自体に杜っぽさを感じる。鬱蒼とした神社の中に入り込んでしまったような、ともすると辛気くさい、変に厳かな空間なのだ。スポーツの現場に相応しい、いい意味での軽さ、言うならばスポーティさに欠けている。