U-23アジア選手権のグループリーグ第3戦、日本対カタールはVAR判定に注目が集まった一戦だった。

 前半終了間際、田中碧のタックルが相手のアキレス腱を直撃したシーンでは、赤紙が翳された。田中碧の右足はその前にボールに行っていた。故意ではない。赤紙は厳しすぎる判定ではないかとの声がある一方で、サッカー選手の急所と言うべきアキレス腱にスパイクの裏が入ったことを重く捉える声もある。

 後半、ペナルティエリア内で相手のシューターの蹴り足に、ボールを突っつこうと斎藤未月の右足が当たってしまったシーンでは、カタールにPKが与えられ、それが同点ゴールとなった。

 それぞれのシーンでテレビカメラは、主審がVARルームと交信する姿をほぼずっとアップで捉えていた。実況アナは主審の名前もしきりに伝えた。日本のテレビ(特に民放の方)は、解説者が「えー、それはねーだろ」と粗野な口調で、ひたすら異を唱え続けた。

 時間にしておよそ2分。よくよく考えると、これは珍しい話になる。VARがなかった従来は、審判がこれほど長時間、アップに(さらし者に)なることはなかった。

 VAR室と交信を下した末の判断だ。主審独自の判定ではない。公正を期すために採用された判定のシステムであるにもかかわらず、変に注目を浴びる。悪く言われる。見る側の感情を揺るがす結果となっている。

 Jリーグでも間もなく始まる新シーズンから本格的に導入される。新しい波の到来だ。日本のサッカー界には劇薬になるものと思われる。映像による検証という客観的なシステムであるにもかかわらず、テレビ画面上では審判がさらし者になる。視聴者には、その顔と名前がこれまで以上に刻まれることになる。

 それでも最終的な判断を下すのは主審だ。中にはどちらにも取れる場合がある。映像で見れば見るほど微妙なシーンがある。逆に反感を買う恐れがある。カタール戦のテレビ解説者がいい例だ。

 サッカーのルールはそれこそ毎シーズン微妙に変わっている。最近大きく変わったのはハンドの解釈になるが、正直言えば、こちらが知らなかったこと、たとえば、当然イエローだと思っていた事例が、赤だったり、あるいは単なる反則として処理されることがけっこうある。

 実況アナ、プロ経験者が務めることが多い解説者でも、最適化された状態にある人は思いのほか少ない。更新プログラムは頻繁に用意されていて、常にそれを更新する必要に迫られているという感じだ。解説席には常時、審判委員長にいて欲しいくらいだが、それでも微妙な判定は存在する。審判受難の時代は、むしろVARの導入でより促進しそうな気がする。日本の審判団はそれに耐えられるか。現状、プロの主審は13人しかいない。心配になる。

 そもそもこれまで日本の審判は海外に比べ、保護された状態にあった。テレビや新聞をはじめとする大手メディアは、ジャッジに関する問題に熱心に触れようとしてこなかった。スポーツ新聞でさえ、審判の名前を明記してこなかった。触れるべき対象から審判は除外されていた。

 審判に文句を言うことは、教育的に許されてこなかった経緯があるからだ。ひとたび下った判定には無条件で従うものとされてきた。選手だけではない。メディアも同様だった。海外の本場とは大きく異なる点だった。

 言い換えれば、よい審判が育ちにくい環境に置かれていた。批判に曝されることがなかったため、言われ弱い体質になっていた。試合中、判定を巡って選手に詰め寄られるシーンに、とりわけ本場との違いを見て取ることができた。

 日本の審判のレベルは低いとよく言われる。しかし、そうなった理由は審判だけに非ず、である。日本サッカー界というか、日本全体が抱える問題である気がする。その国のサッカーのレベルは、様々な要素から構成されている。選手、監督、審判、協会、国内リーグ、育成組織、メディア、ファン、観戦環境……。その平均値がその国のレベルになる。代表チームの成績もそれと深い関係にある。つまりお互いは連鎖している。相殺し合う関係にある。