「自分には嫌いな子がいる」と悩む子に、どんな声をかければいいだろうか。麹町中学校の工藤勇一校長は「『みんな仲良く」という理想論を押し付けるより、心と行動は切り分けて行動をすることを伝えるべきだ」という--。

本稿は、工藤勇一『麹町中校長が教える 子どもが生きる力をつけるために親ができること』(かんき出版)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fzant

■「みんな仲良く」が子どもを苦しめる

息子が幼稚園に通っていた頃、彼が「自分には嫌いな子がいる」と悩んでいることがありました。息子からすれば、大好きな母親はみんなと仲良くしているのに、同じようにみんなと仲良くできない自分が苦しかったのでしょう。

さらに、幼稚園では「みんな仲良く」と日常的に言われていたようですから「嫌いな子がいる自分は、だめな人間だ」と悩んだようなのです。幼稚園に行きたくないとまで言っていました。

そこで私は、五味太郎さんの『じょうぶな頭とかしこい体になるために』(ブロンズ新社)という本を使いながら、「お父さんにも嫌いな人がいるよ。お母さんにだって、嫌いな人がいるんだよ」と伝えたのです。

息子は目を大きく見開き絶句していました。私と話したあとに妻にも「お母さんにも嫌いな人がいるって本当?」と、確認しに行ったほどです。最初は信じられないという感じでしたが、そのうち安心できたようで、元気に幼稚園に通えるようになりました。

こんな小さな子でも「立派でいなければならない」という思いを背負って生きているということが、私には衝撃的でした。

この出来事以降、教師としてもこのような思いを生徒に背負わせてはいけないと改めて肝に銘じ、接し方がずいぶん変わりました。「こうでなくてはならない」ということが伝わってしまうような言葉は、使わないようにしたのです。

■気持ちと行動を切り離す

普段から使う言葉を少し注意するだけで、子どもに伝わるメッセージは変わります。

たとえば「みんな仲良く」という言葉も「みんな仲良くしなければならない」ではなく、「人と仲良くすることは難しいものだけど、仲良くできたら素敵(すてき)だね」という言葉なら、子どもたちが受け取るメッセージはまったく違うはずです。

ちなみに、息子が悩んでいたとき、こんなことを付け加えました。「お父さんにも嫌いな人がいるけれど、だからといってその人に意地悪はしないよ。きちんと挨拶もするし、本人に嫌いだと言ったりはしないよ」

心と行動を切り分けることは大事なことだと、きちんと伝えておきたかったのです。

人は、差別をする心は消せないかもしれません。私だって聖人君子ではないですから、誰かを差別しそうな考え方が頭をよぎることもあれば、息子にも伝えたように嫌いな人だっています。

ただ、たとえそんな心は消せなくても、どんな言動が差別になるのかを知ることさえできれば、差別しない行動を取ったり、嫌いな人ともうまく人間関係を築いたりすることはできます。

脳科学の知見から考えてみると、人の「無意識」は同じ行動を繰り返すことによってつくられます。たとえ一度固定化された無意識(それが「心」と言えるでしょう)であっても、別の行動を繰り返すことによって書き換えられることがわかっています。

「みんな仲良く」という理想論を子どもに押し付けて苦しませるよりは、「心と行動は切り分けられる」ということ、そしてだからこそよい行動をするのだということを、伝えたいものです。

▼まとめ 心と行動は切り分けて、「よい行動」をする

■嘘も大切なコミュニケーションスキル

子どもたちの周りには、心の教育に関する言葉があふれています。前述した「みんな仲良く」もそうですが、「心をひとつに」「嘘(うそ)をつかない」など、挙げればキリがありません。そして、これらの言葉にとらわれている方が、とても多いと感じています。

子どもが小さいうちはたしかに心の教育も大切ですが、それを言葉で教えるのはなかなか難しいのではないかというのが私の実感です。そしてその言葉の中身についても、少し疑う必要があるのではないかと思うのです。

たとえば「思いやりを持ちなさい」という言葉。

この「思いやり」とは一体なんなのでしょうか。どのような行動のことを言うのか、とても曖昧な言葉です。

私は高校生くらいの頃から哲学が好きで、周りの友人とディスカッションをして夜を明かすことも少なくありませんでした。「思いやり」という言葉にも引っかかりがあり、自分なりにずいぶん考えてみましたが、考えれば考えるほど簡単には使えない言葉だと感じます。そして「嘘をつかない」という言葉。これは本当に大切なことでしょうか?

たとえば、あなたが誰かからお土産をもらったとしましょう。それがあまり好きなものではなかったとき。あなたは「ああ、これ嫌いなんだよね」と言うでしょうか? また、誰かの家で夕飯をごちそうになり、あまり口にあわなかったときに「おいしくないです」と言いますか?

そう考えると、嘘をつくことで人を幸せにすることもあるのではないでしょうか。

進んで子どもたちに伝えたことはありませんが、嘘をつくことも、コミュニケーションスキルの一つと言えると思います。

■大人の理想論を押し付けない

「自分に嘘をつかないことが大切!」という言葉もよくわかりません。そもそも「自分」がどういう人間なのかもよくわからないですし、自分の欲求や気持ちに正直になることはそんなにいいことなのか疑問です。

少し辛(つら)いときや疲れているときに周りの人から「辛そうだけど大丈夫?」と聞かれ、「大丈夫」と自分に嘘をつくことは、大事な社会的な要素なのではないかと思うのです(もちろん、無理をしなさいということではなく、体調の変化には気を付けるべきです)。

嘘をついて人の物を盗ったり、自分のなかにある良心に背いたりするというのはほめられたことではありません。ただ、心の在り方よりも、実際にどんな行動をするかのほうが大切だということは、子どもたちに伝えていかなければなりません。

「困っている人を助けたいけれど、勇気がなくて実行できない人」と、「ずるい気持ちがきっかけかもしれないけれど、困っている人を助けた人」がいたら、私は後者のほうが価値があると思うのです。

ドラマやアニメの世界のなかのような、理想的すぎるほどの価値観を子どもに押し付ける大人は少なくありません。こういった価値観からくる言葉は、子どもにとっていいものだと思われるからでしょうか(大人だって、守れないのに……)。

そんな言葉を鵜呑(うの)みにして、苦しんでいる子どもがたくさんいます。耳障りのいい言葉こそ、それが子どもにどんな影響を与えるか考えてみる必要があるでしょう。

▼まとめ ドラマやアニメの価値観はしょせん綺麗事(きれいごと)

■偽善者かどうか考えても無駄

人は、ときに自分の行動が周りからどう思われるかを気にします。中高生くらいだと、とくにその傾向が強く、よい行いをした生徒に対して周囲の人間が「偽善者」と揶揄(やゆ)することがあります。

しかし私はいつも「偽善者かどうかを考えることこそ無駄。そもそも、人によく思われたいって素敵なことでしょ」と伝えています。この「偽善」という言葉を紐解(ひもと)いていくと、人間が「心の在り方」にいかにこだわっているかがわかります。

ここでまったく正反対の「偽悪」という言葉をご紹介します。この言葉は私が大学時代に読んだ絵本、『きつねのざんげ』(安野光雅・著/岩崎書店)のあとがきで知った言葉です。偽善と偽悪。一見、相反するように見えるこの2つの言葉ですが、実はまったく同じものなのではないかと私は思ったのです。

「偽善」というのは簡単に言えば「いい子ぶる」というようなイメージで、周りによく思われたくて善行をすることを意味します。それが周りから見たときに、その人の「本当の姿」と乖離(かいり)があるために、「偽善者だ」と揶揄されるわけです。

「偽悪」は簡単に言えば悪ぶること。周り(とくに身近な仲間)に「いい子ぶってる人間だ」と思われたくないために、わざと悪いことをすることを言います。

■大切なのはどんな行動をするか

いい子ぶるのも悪ぶるのも、中高生にはよく見られる行動ですが、どちらも自分の周りによく思われたいと思っているからに他なりません。

人からよく思われたくていいことをする「偽善」も、仲間から一目置かれたくて悪いことをする「偽悪」も、行動の中身は違いますが構図は同じです。「周りからどう思われるか」という他人の心のうちが気になり、行動ができなくなることは、誰にでも少なからず経験があるでしょう。

しかしこういった言葉に振り回されてはいけません。大切なことはどんな行動をするかです。人は行動の積み重ねでこそ評価されていくものだからです。最近はあまり使われなくなりましたが「お天道様は見ています」という言葉があります。

近くに誰もいなくてもお天道様は見ているのだから、どんなときも悪いことをしてはいけないということを言い聞かせるための言葉ですが、「自らを律して、しっかり生きていきなさい」という素敵なメッセージが込められています。子どもたちには、自分の心のなかの「お天道様」を意識し、歩んでほしいものです。

▼まとめ 「人によく思われたい」は素敵なこと

■「いじめ撲滅」がいじめを生み出す

「誰にでも優しくしなさい」という言葉はたしかに理想的な言葉かもしれませんが、人との距離感を教えるには妨げになってしまう気がします。子どもが人間関係の壁にぶつかるのは当たり前のことです。この壁にぶつかりながら、さまざまな経験を通して、人との距離感を学んでいくものだと思います。

いじめ撲滅の標語でよく使われている「いじめを絶対に許さない」という言葉について、みなさんはどう思われますか。一見、聞こえのいい言葉に感じるかもしれませんが、私はこの言葉は人に対してとても冷たい言葉のように感じます。

工藤勇一『麹町中校長が教える 子どもが生きる力をつけるために親ができること』(かんき出版)

「いじめは絶対に許さない」ということは、謝っても許されない、反省しても許さないという言葉に聞こえてしまいます。そもそもいじめを起こさないために使われるようになった言葉ではありますが、こう言われる環境で育っている子どもたちからすると、はたして正直に「私、あの子をいじめてしまいました」と言えるでしょうか。

何が人を傷つける言動かということは、大人でも気が付かないことがあります。子どもだったらなおさらです。

言葉で「みんな仲良く」や「いじめを許さない」「いじめをゼロにする」などと言っても、いじめはなくなりません。ましてや、この多様性を排除する言葉がいじめを生み出す原因になったり、いじめを解決できなくする原因になったりするように、私は感じています。

▼まとめ 多様性を認めることが、いじめのない社会への第一歩

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工藤 勇一(くどう・ゆういち)
千代田区立麹町中学校長
1960年山形県鶴岡市生まれ。東京理科大学理学部応用数学科卒業。山形県・東京都の公立中学校教員、東京都教育委員会、目黒区教育委員会、新宿区教育委員会教育指導課長等を経て、2014年から現職。教育再生実行会議委員、経済産業省「未来の教室」とEdTech研究会委員、教育長・校長プラットフォーム発起人などの公職を歴任。著書に『学校の「当たり前」をやめた。——生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(時事通信社)、『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』(SBクリエイティブ)、『麹町中校長が教える子どもが生きる力をつけるために親ができること』(かんき出版)がある。
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(千代田区立麹町中学校長 工藤 勇一)