お笑いコンビ「猿岩石」で活動していた元芸人の森脇和成さん。

1990年代中盤、元相方の有吉弘行さんとともにアイドル的な人気を博していたが、45歳を迎えた今は役者として小劇場の舞台に立つ日々だ。J-CASTトレンドは森脇さんを取材し、その現在地を追った。

「コントでは自分たちが一番だと...」

森脇さんは地元の広島で小学校から高校まで同級生だった有吉さんの誘いを受け、1994年に「猿岩石」を結成。同期には「アンタッチャブル」(山崎弘也さん、柴田英嗣さん)、ふかわりょうさん、劇団ひとりさんなど今をときめく芸人たちがいた。「コントでは自分たちが一番だと思っていた」とネタの面白さには自信があったという。

1996年、転機が訪れる。日本テレビ系列のバラエティー番組「進め!電波少年」の企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」に、当時無名だった猿岩石が抜てきされたのだ。

香港を起点に、東南アジアやインド、中東を経由してロンドンに至るヒッチハイク旅。出発当初は「スタッフが助けてくれるのかなと思っていた」が、

「ベトナムではじめて無一文になったとき、スタッフが目の前で缶コーラをおいしそうに飲んで、余りを捨てた。あとから考えると『助けませんよ』という意思表示だったのでしょう」

覚悟を決めた2人は、野宿や絶食が当たり前という過酷な環境の中、各国の人々の助けを受けながら190日間のヒッチハイク旅をまっとうした。

「芸人として何の実力もないまま売れていた」

帰国した日本で待ち受けていたのは、2人のヒッチハイク旅に感動した視聴者の声援だった。96年12月リリースのシングル曲「白い雲のように」はミリオンヒットを記録し、一躍時の人になった。

森脇さんは「有名になれたのは嬉しい」と当時を振り返る一方で、「思い描いた売れ方ではない」とジレンマを抱えていたという。

「自分たちは芸人として何の実力もないまま売れていた。芸人が歌なんて、と思っていました」

そうした感情は隣にいた有吉さんの方が強かったようで、

「有吉の方がより『芸人』で、職人気質。有吉は僕の100倍歌いたくなかったと思います」

その後、森脇さんは知人の勧めで飲食店を開店する。経営には苦労したというが、

「芸能界を見た時に、あんまり必要とされていないなと感じました。自分のことを必要としてくれる人のところで頑張りたいと思ったのです」

と、実業家への転身を決意。2004年に猿岩石を解散し、一時は芸能界を退いた。

しかし、森脇さんは2015年に「役者」として復帰する。

「台本のある仕事がしたかった。芸人みたいにフリーでしゃべるのは無理だと。10年以上(芸人を)休んで、そういうことを続けていた人には勝てないと思ったからやめました。ちゃんと台本があって、役作りをして煮詰める方が僕には合っているな、と」

小劇場の舞台に立つ現在は「猿岩石のときにいきなり売れてすっ飛ばしたことを、また一からやっている」日々だと語る。

「元相方として、同じ地元の人間として誇らしい」

森脇さんとのコンビ解散後、「ピン芸人」となった有吉さんは2007年頃から「毒舌キャラ」として再ブレイク。現在はバラエティー番組の司会者として、連日テレビに出演している。

森脇さんは有吉さんの活躍を「元相方として、同じ地元の人間として誇らしい」としながら、

「今は役者をやっているが、力をつけて、あいつの背中が見えるところまで行けたらいいな、と思いながらやっています」

と目標を語った。

役者としての道を歩む森脇さんが、今年は「原点回帰」と言えるような仕事もした。9月〜10月にかけてユーチューブ上で公開されたWi-Fiレンタルサービス「グローバルWiFi」のPR動画「激烈!グローバルでんぱ調査隊inタイ」(全4話)では、タイの地方部を巡るロケの中で久々のヒッチハイクに挑戦している。

「車の性能、道の舗装が20年間で変わっていて、めちゃくちゃ快適なんですよ。時代の流れを感じました」と環境の変化に感動する一方で、「当時は21、2で今は45(歳)。体力の衰えがものすごく分かった」と苦労を振り返った。

最後にこんな質問をぶつけてみた。もし今、有吉さんとヒッチハイクをすることになったら―――。

「もともと幼馴染なので、いくら有吉が大金持ちでも(旅中)の関係性は変わらないと思う。もしかしたら俺が媚び始めるかもしれないけど(笑)」