「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第5回 外木場義郎・前編 (第1回から読む>>)
平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。しかし、その時代のプロ野球には強烈なキャラの選手たちが大勢いて、ファンを楽しませてくれたことを忘れてはならない。
過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。5人目はカープのレジェンドエース、外木場義郎(そとこば よしろう)さんが語った、完全試合を含む3度のノーヒットノーラン達成についての言葉を伝えたい。
外木場(中央)の完全試合後の祝杯。右は松田耕平オーナー代理。左の眼光鋭い男は根本監督(写真=共同通信)
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外木場義郎さんに会いに行ったのは2007年4月。JR広島駅に直結したホテルのラウンジで待ち合わせた。細い黒縁の眼鏡をかけ、髪を七三に分け、紺のダブルのスーツに赤いネクタイを締めた外木場さんは実直な銀行員そのもの。取材の際、ここまでの正装で現れた野球人は過去にいなかったし、ラウンジのソファに腰掛けても身は沈めず、背筋をピンと伸ばしたままだった。
広島が弱小球団だった時代から、外木場さんはエースとしてチームを支えていた。オーバースローからの剛速球、ドロップといわれたタテ割れのカーブを武器に、真っ向勝負するピッチングが身上。1975年には20勝を挙げて最多勝に輝き、球団初のリーグ優勝に大きく貢献。広島の歴史を語る上では絶対に外せない投手だ。
が、それ以上に外せないのが球史に残る大記録。外木場さんは65年10月2日の阪神戦で挙げたプロ入り初勝利をノーヒットノーランで飾っていて、68年9月14日の大洋(現・DeNA)戦では完全試合を達成、さらには72年4月29日の巨人戦でまたもノーヒットノーランを成し遂げているのだ。
日本プロ野球史上、3度の達成はもう1人、草創期の巨人で活躍した沢村栄治がいる。しかし完全試合はなかった。このことに触れ、[記録の神様]と呼ばれた宇佐美徹也はこう書いている。
<沢村がこの3試合に出した走者は合わせて15人(四球12、失策3)なのに、外木場は1+0+2=3人(四球2、失策1)、数も内容も抜群で非の打ちどころがない>
1度でも難しい記録を3度もやってのけられた要因はなんだったのだろう。よく、運や偶然が働いた結果といわれるが、3度となるとそれとは別のものがあったのではないか。もしや外木場さんには、大記録達成のスイッチが確実に入る瞬間があったのでは? と考えたくなるが、実際にはどうだったのか。まずはその達成回数について聞いた。
「まあ、私の場合は3度ねぇ、結果的にそういう記録ができたんですけども、7回ぐらいまでノーヒットの試合も7度か8度あるんです。だけど、記録は狙ってできるものでもない。私は弱い球団でありながら運がよかったんです。やはり、偶然的なものがいろいろ重なって結果につながるわけですから」
歯切れのいい、よどみない語り口だった。やはり、3度達成でも運と偶然は不可欠と考えている。偶然という意味では、1度目のとき、本来は外木場さんではなく、7年目左腕の大羽進(おおば すすむ)が先発予定。その大羽が練習中に膝を故障し、急きょ、「外木場に投げさせてみたらどうか」となったのだった。
まだドラフト制度がない時代、外木場さんは鹿児島の出水高から社会人の電電九州を経て、64年9月に入団。高校時からカーブには自信があり、遠投130メートルの地肩の強さを生かした真っすぐにも力があった。が、同年は登板がなく、翌年からリリーフで起用され、その日、甲子園での阪神戦、2度目の先発。相手の先発は外木場さんにとって憧れの投手、エースの村山実だった。
「うわー、村山さんかと。だからもう勝敗は別として、そういうゲームに投げられるだけで嬉しかった、というのが第一印象。記録にもあんまり感動はなかったんです。次の日、新聞を見ましてね、ああ、やったんだな、とは思いましたけど、当時は今みたいにマスコミがすごく騒ぐわけでもなく、試合中に意識することも全然ない。記録よりもまず勝ったこと。なんにしろ初勝利ですから」
謙遜とは違う。まだ実績がないから意識も感動もなくて当たり前ということか。マスコミの報道態勢が今とは違っていた部分も納得できるが、仮に、現在のように全試合がテレビで放映されていたら印象も違っていたのでは?
「そうでしょうね。ただ、マスコミといえば試合後、記者の人からね、『外木場君、こういう記録を達成した人は意外と短命だからねぇ』とチラッと言われましてね。この人、ナニ言うてんのかな、って思いましたよ。確かに、過去に何人かそういうピッチャーはおられるんです。しかし私自身は初めて勝って、記録も作らせてもらって、いきなりそんなこと言われたら、嫌でしょ? それで『なーに、そんなことないですよ。なんならもう一回やりましょうか?』と。ポーンと口に出したわけです」
この「なんならもう一回」発言は文献資料でも触れられていたが、理由は書かれていなかった。ゆえに僕は、1度目のときから外木場さんが相当の自信を持って投げていたのでは、と推測し、「もう一回」と豪語できるだけの手応えをつかんでいたものと思っていた。現に3年後には「もう一回」があるわけだが、実際にはそうではなかった。記者も驚いたのではないか。
「どうでしょうかね。まあ、驚くというよりも、こいつ生意気だな、ぐらいに思われたかもしれませんよね」
もっとも、その記者の意地悪な言葉は、予言めいた響きを持っていたといえる。大記録達成の初勝利ゆえに首脳陣の期待は大きかったはずだが、翌66年の外木場さんは主にリリーフを務めて0勝1敗。67年は先発も一気に増えたなかで2勝3敗。決して、順風満帆な投手人生の始まりではなかった。
「一時はトレードの話とかも出たんですよ。それがある日、当時はヘッドコーチだった根本陸夫さんに呼ばれまして。『おまえは力強さ的なものは非常にいいものを持っているので、もう少し力の配分を考えたらどうか』と指導されたんです。『バランスもいいんだけども、やや重心が高いから、高めにボールが行きやすい』と。それが最初のきっかけで、改めて、練習を積んでいったわけです」
67年のシーズンオフ、指導を受けていた根本ヘッドの監督就任が発表された。直後、外木場さんは新監督に呼ばれた。
「『ちょっと会社に来てくれんか』と。普通、活躍してない選手が呼ばれたらね、いよいよトレードか、ヤバいな、と思いますよ。それで行ってみたら、ざっくばらんで、『まあ、お茶でも飲むか』と言われて何かおかしい。そしたら、『俺は来年、監督やるけれども、お前は一軍のピッチャーとして扱うから、そのつもりでしっかり頑張ってくれ』と」
わざわざ会社まで呼ばれて言われたことで印象に残り、監督の思いが伝わってきた。その監督の方針のもと、「12球団ナンバーワン」といわれた広島の練習量。特に投手陣は藤村隆男投手コーチの指導が厳しく、1人が練習中に泡を吹いて倒れ、痙攣(けいれん)を起こしたこともあるほどだった。外木場さんが「彼はもうダメかな」と思っていると、若干、練習量が減らされた。
「もし倒れる者が出なかったら、と思うとゾッとしますよ。なにしろ、キャンプでキャッチボールが終わったら、野手の練習が終わるまでピッチャーは休みなし。2時間半ぐらい、とにかく走ることを重点に動き続けるわけです。今の選手にやらしたら、みんな野球やめてしまう、というぐらいのきつい練習。ですから、そういう練習に耐えられたことは、何か、記録ができたことにもつながるんじゃないでしょうか」
その記録とは、2度目のノーヒッターとなる68年の完全試合。1度目とは違って、首脳陣からの指導と猛練習があって初めてできたこと、という実感がある。しかも同年、外木場さんは一気に21勝をマークし、23勝を挙げた安仁屋宗八(あにや そうはち)とともにエースの座にのし上がる。さらに、防御率1・94で自身初のタイトルも獲得。ならば、同年は相当に年間通して好調だったのかと思いきや、開幕3戦目の初登板で打たれて序盤で交替となっていた。
「そのときに根本さんから、『人間のやることだから、いつも100パーセントというわけじゃない。ただ、今日どうしてやられたのか、自分なりによう考えてごらん』と言われました。あの人はあんまり込み入ったことは言わないんですよね。選手が、よし次に頑張るぞ、ってやる気を起こさせるような話の持っていき方をされて、自分自身で考えさせる。考えれば、何かそこにヒントがあるだろうと。それで2戦目の大洋戦、完封できた。そこからですよ、私がローテーションに入ったのは。そういう意味では本当に、私がここまでなれたのは根本さんのおかげだろうな、と思ってますよ」
根本監督の指導で「ここまでなれた」というなかに、完全試合も含まれている。9月14日、広島市民球場での大洋戦。
「あのときは前の日の夜から昼過ぎまで雨が降ってまして、これは中止だろう、と思ってたんですよ。それが『やる』となって、初めは気持ちが乗ってない。逆に、むしろそのほうがよかったんじゃないか、というのもありますね。あんまり気負い過ぎなかったことが。もちろん、後から考えてみれば、ということですけども」
いざ試合が始まると、不思議と気持ちが乗っていった。自分では万全の態勢では行っていない、と思っているのに、イニングを投げるごとに体もうまく使えてきた。5回に近藤昭仁から三振を奪ってベンチに戻ると、捕手の田中尊(
たかし)が「お前の今日のボール、すっごいキレがいいで。ひょっとしたら完封するだろうな」と言った。
自分では実感がなかった外木場さんも、実際に受けている捕手から「いいぞ」と言われ、ついその気になった。6回は三者連続三振、7回は投ゴロ、三ゴロ、左飛。このあたりで完封以上、記録がかかっていることは頭にあった。いい当たりは5回、松原誠の左飛ぐらいだった。ベンチは静かになり、捕手の田中もあまり話をしなくなった。そのなかで投げている当人が記録達成を意識したとしたら、8回の頭だろうか。
「9回、9回の頭ですよ。意識というより、これはいけそうだな、よし、っていう気持ちになって、狙ってみようと。もう完全に狙いに行きました。力が入りましたよ。だから最後、3人とも三振取れたと思うんです」
9回の大洋は代打の中塚政幸、同じく代打の江尻亮、そして山田忠男。このなかで中塚はセーフティバントの構えをしたという。
「ちょっとそんな格好してましたけど、もうっ、やられたらしょうがない、とは思いました。ただ、代打で出てくる人は私のボールに目が慣れてないとしても、緩い球だと変化してもついてくる可能性がある。だったら速い球で押せ、というのが鉄則なんです、はっきり言えば。だから、9回はほとんど真っすぐでした。三振取ったボールもみんな真っすぐでしたから」
結果、16奪三振というセ・リーグタイ記録も作ってのパーフェクトゲーム。これほど完璧な形での達成はほかにない。
(後編につづく)
取材当時の外木場さん。まるで銀行員のような印象だった