「あたしの話を聞け」貧困女子ルポライターが呼び出され、出会った少女は圧倒的な怒りに満ちていた。興味をひかれ、2年越しという長期間に及ぶ聞き取り取材を続ける中で聞こえた“彼女の言葉”。
“貧困女子”ルポライターが呼び出された少女に「不幸少女のカタログ」と罵られた日より続く

◆◆◆

単純な善意や常識的な理屈は邪魔でしかなかった

「売春による稼ぎで居所不定の生活を送る未成年の少女」は、本来保護とか支援とか、児童福祉の対象なのだが、そうした文脈で自分たちが被害者扱いされることに、19歳の里奈は激しい抵抗感を示した。


©iStock.com

「金で買われてんじゃなくて、売ってやってるんだけど?」

 それはやはり第一に、そうして自力で生きる少女らが、たとえ自らの性を切り売りし搾取されようとも、たとえ時には暴力の被害など恐ろしい経験をすることになっても、「自分の力」で生きていることを誇りに思い、その場で得られる自由とパワーの中に、それぞれ十代の少女なりの青春を味わっていたからだ。

 少女らの生きる世界の眩しさと逞しさを前に、単純な善意や常識的な理屈は邪魔でしかないのだと改めて思い知った。少女らからすれば、たとえどんなに劣悪な環境であっても、自分の力で奪い取った自由を誰にも侵されたくないのだ。

 里奈の語る生い立ちや物語に、僕自身の価値観そのものも、大きく覆された。

 里奈やその仲間たちは平然と言い切る。

「金で男に抱かれることとあたしの自尊心は、関係ない」

「金で買われてんじゃなくて、売ってやってるんだけど?」

女を売ることは、世の中を生きるための「戦略」

 幼い時代の里奈は北関東の筋金入りのナイトワーカー女性らに育てられ、女が「自らの性」を糧に生きていくことを肌感覚で学んで育ってきた。もちろん女性がそんなことをせずとも自力で生きていく道が開けた世の中になったほうが良いに決まっているが、リアルを生きる彼女らにとって必要なのは、理想ではなく現実問題として圧倒的に女性の自由と尊厳が制限されてきている今を「どう生き抜くか」なのだ。

 女を売ることは、女に生まれただけで理不尽で不利な世の中を生きるための「戦略」。

 そして、その戦略を採るも採らぬも「女の自由じゃねえか」。

 里奈の言葉に、僕の中の綺麗ごとが次々に瓦解していった。

「女でない者」が何か御用ですか?

 昨今、ミソジニスト(女性嫌悪主義者)とフェミニストの言い争いの中に、フェミ的な発言をする女性が女性性を押し出した服装や表現をするだけで「矛盾」とミソジニストが騒ぎ立てる定型化した流れがあるが、里奈たちの生き様や言葉はそうした論争を鼻で笑い飛ばす。

 女が生きるための戦略として、売春を糧に生きることもまた女の自由。売春しようが風俗やろうが夜職しようがAVに出ようが、すべては女の自由。ミニスカートをはこうが胸の空いた服を着ようが整形しようがメイクで美しくなろうが、女がそうしたいからすることに、「女でない者」が何か御用ですか?

 もちろんそうした産業が男の財布を膨らませることに対する腹立たしさはあるものの、そのような女に生まれて生きることの自己選択権とダイナミズムを無視してその被害者像のみを切り取ったことが、里奈が僕の著書に対して憤慨した理由だったのだ。

 「あたしたちを勝手に不幸だとか決めつけてカタログ作ってんじゃねえ」というわけである。

 もちろんその後の人生のリスクを考えれば、彼女たちが何らかの支援に繋がるべき存在だということは曲げられない。けれど、福祉や支援や制度みたいな四角張った「漢字2文字」と彼女らの間になぜ斥力があるのかは、改めて痛いほどに学ばせてもらった。

性風俗で働く多くの少女らが抱えていた「不幸の種」

 里奈は組織売春の首領や性風俗で働く中で出会った多くの仲間の少女らが抱えていた「不幸の種」を、心底危惧していた。

「あたし以上に波瀾万丈な子なんか一杯いる。本当に可哀相なのは、想い出がそもそもないとか、悪い想い出しかない子だよ。理由? 理由は、そうした子は寂しさに負けていつも間違ったことをするからだよ。あたしいつも、周りの子に『寂しさに負けんな』って言ってきた。だってそれが1番ヤバいことじゃない? あたしも一歩間違えたらそうだったと思うけど、マジそれが1番ヤバいから」

 里奈自身は生活の安定しない養母の元で3人のきょうだいを下に抱え、飢餓を感じるような育児放棄を経験したり、そのきょうだいと泣き別れて児童養護施設に委託されて育った経験がある。

 聞き取れるエピソードはどれもが「即座に児童福祉介入!」と言いたくなるものばかりだったが、幼い里奈にとってきょうだいは宝で、その傍には養母やその友人や遠縁のおばさんたちの手助けもあった。

 里奈が自分を「児童虐待やネグレクトの被害者」「子どもの貧困の当事者」扱いされることを拒否し、僕が彼女の養母への批判を口にすることも絶対に許さなかったのは、養母やきょうだいと過ごした貴重な想い出が、彼女にとっての支えだったからだ。

「本当に寂しくないとはどういうことか」がわからない少女たち

「寂しさに負けて間違ったことをする」

 里奈が主張していたのはこんなことだと思う。

 過酷な生い立ちから自力で立ち上がるべく売春やセックスワークに入った少女たちは、そうした自助努力の結果、「生活の安定と自立」を得た後に、必ず抱えてきた寂しさを「とりもどそう」とする。自らの身体を犠牲に、短期間は大きな稼ぎを得ることができる彼女らだから、そこにはホスト遊びやヒモ男のような、金と安心をトレードしようという誘いがつきまとう。

 里奈が言うヤバい(=リスク)とは、彼女のように子ども時代に得た本当の暖かさや安心の記憶がない者は、その偽りの安心に安易に走ってしまうし、どうすれば「本当に寂しくない自分になれるのか」「本当に寂しくないとはどういうことか」がわからない。

 むしろ自分が寂しいことにも気づけないし、自分をなぜ大事にすればいいのかすらもわからず、いわゆるセルフネグレクトの傾向も大変強い。

 結果、その稼いだ金をどう使えば自分が安心する居場所を作れるのかも想像できず、正体の見えない何かを求めて、いつまでもリスキーなセックスワークの底辺界隈を彷徨い続けることになる。それこそが里奈の言う本当の不幸で本当に「心配な子たち」だった。

「大事にされた記憶がないから自分を大事にできない」

 里奈が当初、僕の書いた本に批判のアプローチしてきたのも、やはり彼女たちが「どうして今もつらいのか」や「どうしてずっとつらいままなのか」まで僕が踏み込めず、似たような機能不全家庭に育っても、後々の不幸にグラデーションがあることを無視して一律に「貧困と不幸せのカタログ」を描いたことについて、違和感を覚えたからだろう。

 現場を生き抜いてきた里奈だからこそ気づいたともいえるが、これはとてつもない慧眼だったと思う。

 こうすれば安心できるという「再現のベースとなる過去の安心の記憶がない」ことや、「大事にされた記憶がないから自分を大事にする意味がわからない」ことがそれほどまでに大きなリスクだという感覚は、下手をすれば様々な困窮者支援の現場にいるプロの支援職ですら本質的には理解できていないことなのだ。

「売春相手の斡旋」という犯罪行為であったとしても、路上に飛び出て不安と混乱で身も心も破局的な状態にある仲間たちと交流し、そのケアをしてきた里奈だからこそ、直感したことかもしれない。

“心配な子たち”の居場所を作ることにその青春を費やした里奈

 里奈は「実は女の子集団の中で浮いてしまう・同世代の同性と話が通じない」という強いコンプレックスに右往左往しながらも、まずは同じ環境にある少女ら同士の共助によってその「心配な子たち」に居場所を作ることにその青春を費やした。

 今はどこにいるのか生きているのかもわからぬかつての仲間の生い立ちを、自身のことのように嗚咽しながら話した里奈の姿を、僕は一生忘れないだろう。

 里奈自身が最終的に目指した居場所については、本小説の中で明らかにしていこう。

ヤクザの娘だった養母、戦後昭和から平成を貫く“女の物語”

 改めて里奈から聞き取った物語は、戦後昭和から平成を貫く、「女の物語」だったと痛感する。

 幼いころから里奈の面倒を見続けた遠縁のおばさんにも、時代を反映したルーツがあった。おばさんの母は、大家族の農家の末女として生まれるも、貧しさから国策産業だった紡績業に出稼ぎに出され、敗戦を経て夫と帰る家を失った、言わば国と家から捨てられた女だった。そんな母を若くして失ったおばさんは、製造業と賭博の街として復興していく地方都市で、身寄りもなく必然のように夜の女となった。

 里奈の養母はその街の裏側を支えたヤクザの娘に生まれ、子どもの頃から差別のレッテルを貼られ、不良社会の中で不良の女として立ち回ることを少女時代から強いられ、やはり成人を待たずして夜の女となった。

 日本のどこにでもある地方都市で、女であるだけで圧倒的に不自由な時代を、女であることを武器に、身を寄せ合うようにして彼女たちは生き抜いた。その力学を見聞きし、当たり前のようにそれを吸収して育った里奈。

 改めて里奈という存在は、女性から「それ以外の武器」を奪い続けてきた理不尽な男社会に克明に刻まれた、女たちの爪痕だったのだと思う。

この国の、かつて少女だったすべての女性へ

 初めて挑戦する小説表現。ひとりの少女の半生を物語化していく中、当然里奈本人や周囲の人々の「現在」に不都合が起きないよう、事実を改変して書いたり、それまで僕が取材してきた無関係の実在人物や事件を里奈の人生に配してみたりはしている。

 けれども、彼女の発するメッセージは一貫して、改変する余地がないほどに強いものだった。

 これまで書いてきた「売春少女」「貧困女子」のルポルタージュの延長線上には絶対留まらぬこと、かつモデルになった少女らの尊厳に責任を持つことを念頭に書き進めたが、里奈やその仲間たちの生きる熱量に焦がされ、背中を押す力強さを感じながら、書き上げることが出来た。それはノンフィクションとは違う血の滾る執筆経験だった。

 常に未来の自分が後悔しないように最善の選択は何かを考え、萎縮することなく即断即決を信条とし、自らの道を切り開いて今を得た里奈を誇りに思う。

 もちろん誰もが里奈のよう激しく逞しくは生きられないが、彼女たちの生き様は、生きづらい今を生きるあらゆる女性に、力を与えてくれるものと思う。

 この国の、かつて少女だったすべての女性に、この物語を捧げたい。

(鈴木 大介)