【ホーム最終戦での歓喜と涙】

 15年前のこの試合を、どれだけの人が覚えているだろうか。

 2004年9月24日、大阪近鉄バファローズの本拠地である大阪ドームに4万8000人のファンが集まった。


ホーム最終戦を終えた近鉄の選手たち

 西武ライオンズが2−1とリードして迎えた5回裏、松坂大輔が二番手としてマウンドに向かった。プロ野球界を代表するエースが登板したのは、最優秀防御率のタイトルを狙うため。1イニングを0点で抑えれば、ライバルである近鉄の岩隈久志の射程から逃れることができた。

 しかし、予定の1イニングを三者凡退で抑えた松坂は、6回裏もマウンドに上がった。バッターボックスでは、”いてまえ打線”の四番・中村紀洋がバットを高々と掲げていた。
 
 松坂がストレートを投げる。中村は空振り。球速表示は149キロ。

 2球目のストレートをまたも強振して空振り。150キロ。

 3球目。149キロのストレートを打ち返した打球は、力なくセカンドに転がった。

 試合前に「ブルペンで(調子が)悪ければ投げない」と話していた松坂が、なぜこの日の登板を決めたのか。タイトルを引き寄せるために上がったマウンドで、なぜ被弾のリスクを冒してまで中村に真っ向勝負を挑んだのか。

 それは、「近鉄の最後のホームゲーム」だったからに他ならない。まもなく消滅してしまうチームに対する敬意、最後のホームゲームを見るために大阪ドームに集まったファンへの思いがあったのだ。

 満員のファンの声援に包まれ、2−2の同点になった試合は延長11回まで続いた。その裏の近鉄の攻撃、1アウト二塁で星野おさむが放った打球がライト線を破った瞬間、一塁側ベンチから選手が飛び出した。男たちの歓喜の抱擁は、ゆっくりと別れの儀式へと変わっていく。笑顔はすぐに泣き顔になった。

 その年限りで引退することになる加藤伸一と赤堀元之、ケガから復帰したばかりの吉岡雄二、エースの岩隈、ベテランの水口栄二……球団の歴史に輝かしい足跡を残した主力選手、栄光を夢見て近鉄のユニフォームに袖を通した二軍選手たちも外野に向かった。

 サインボールを投げ込み、ファンに手を振る。選手たちの瞳からは、拭っても拭っても、涙がこぼれ落ちる。三塁側ベンチ前では、中村が松坂と抱き合った。

 岩隈はその瞬間をこう振り返る。

「試合後に球場を回った時、涙が止まらなくなりました。球団の歴史を考えたら、僕はそんなに長くプレーしたわけでもないのに、自分のチームがなくなると、こんな気持ちになるのかと……さびしくて、さびしくて」

 そんなチームメイトを見ていた礒部公一は言う。

「ベテランはもちろん、在籍期間の短い若手も、『本当に近鉄の一員になってくれたんだな』とうれしくなりました。年数じゃないですよ。近鉄の色にみんなが染まってくれた証拠でしょうね」

 グラウンドを回り終えた選手たちが、一、二塁間に整列し、ライトスタンドを背に記念撮影を行なった。前列に座った礒部の胸には、その年の5月に急死した鈴木貴久二軍打撃コーチの遺影が抱えられていた。

 1月31日に勃発したネーミングライツ(球団命名権)の売却問題、6月13日にいきなり表面化したオリックスとの球団合併、リーグ再編問題に端を発した史上初めてのストライキ……さまざまな問題に揺れたプロ野球にとって、70年の歴史の中で大きな区切りとなる一日だった。

【誰にも渡せなかった監督のバトン】

 この日の試合前、監督の梨田昌孝の元を、西本幸雄が訪れた。”お荷物球団”と揶揄され続けた弱小球団を2度のリーグ優勝に導いた名将は「ご苦労さん、しんどいことをさせてしもうたな」とつぶやくように言った。

 2000年に監督に就任した梨田にとって、西本は師匠であり、父親であり、恩人だった。一方の西本からすれば、2連覇を果たしたチームのキャッチャーだった梨田は、手塩にかけて育てた弟子になる。

「大阪ドームでの最後の試合、西本さんはわざわざ足を運んでくださいました。ねぎらいの言葉しかなかったですね。『つらいことをさせたなぁ』と。近鉄は最下位もあったけど、それなりに優勝も狙えるようになっていただけに……。84歳(当時)のご高齢なのに、顔を見せてもらって本当にありがたかったですね」

 かつて、ともに優勝を目指して戦った師匠と弟子に、多くの言葉はいらない。

「たぶん僕もそうですが、西本さんも少し涙ぐんではったように、目頭が熱くなっているように見えました。僕はこれまでに西本さんの涙なんか一度も見たことないけど、あの時はちょっとそうなっていた感じを受けましたね。『近鉄がなくなったら、さびしくなるやないか』と言って」

 ホーム最終戦が行なわれた時点で、チームがオリックスと合併して「オリックス・バファローズ」になることは決定済み。野球ファンを魅了してきた近鉄バファローズが、この世から消えようとしていた。

 選手、コーチ、監督として29年間もそのユニフォームを着た梨田の胸中は複雑だった。55年の歴史を刻みながら、一度も日本一にのぼりつめることなく、チームが消滅を迎える無念さがあったからだ。

「僕は教え子やったから、西本さんが届かなかった日本一に、何としてでもなりたかった。2001年にリーグ優勝して日本シリーズに出た時には『冥土の土産に日本一になりますよ』と言ったんですが、できなかった。鈴木啓示さん、佐々木恭介さん、そして僕と、西本さんと一緒に日本シリーズに出たメンバーが監督をやってきた。でも、僕は誰にもバトンを渡せなかった。これは本当につらい。合併については、『どうにかならんかったんか』という気持ちが強い。心残りがありますよ」

【すべての背番号が近鉄バファローズの永久欠番】

「みんな、胸を張ってプレーしろ。おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

 試合前に梨田から聞いたこの言葉を、礒部は今でも覚えている。

「試合前に選手を集めて、オーナーや球団社長が話をしたんですが、素直に聞けなかったというのが正直なところ。でも、最後に梨田さんの言葉を聞いて、選手はみんな、『よし!』と思ったんじゃないですか」

 この日は完全ノーサインで試合を進めた。梨田の仕事は、選手を笑顔で見つめることだった。

「ピッチャー交代のたびにマウンドに行って、ボールを渡しましたよ。星野がヒットを打った瞬間『よかったな』と思った。最後のホームゲームだから胴上げされるつもりで待ってたのに、みんなが盛り上がって、それどころじゃない。誰も胴上げしてくれんのかと、ちょっとがっかりした(笑)」

 梨田はこの2日後、オリックスとのシーズン最終戦のあと、神戸で5度、宙を舞っている。

【近鉄は奇跡を起こすチームだった】

 近鉄の選手たちはもちろん、ホーム最終戦での梨田の胴上げを計画していたが、星野のサヨナラヒットで吹き飛んだ。

 礒部が言う。

「この試合の前に、梨田監督を胴上げしようとみんなで相談していたんですけど、星野さんのサヨナラヒットが出て、セレモニーが始まって、集合写真を撮ってという流れになってしまって……西武の選手たちも最後までセレモニーに付き合ってくれて、みんなと握手して、抱き合いました」

 梨田はこの日、こんなコメントを残した。

「近鉄は奇跡を起こすチームだった。いい選手、コーチ、裏方さんに恵まれてきた。みんなに支えられて、感謝しかない。チームはバラバラになっても、今日の気持ちを忘れずに、それぞれの野球人生を歩んでほしい」

 2リーグ制になった1950年、パ・リーグに加わった近鉄は55年間、優勝を目指して戦った。

 1950年から4年連続で最下位。その後も”お荷物球団”と言われるほど弱く、勝率3割を切る年もあった(1952年は勝率2割7分8厘、1958年は勝率2割3分8厘、1961年は勝率2割6分1厘)。

 西本が監督に就任するまでの24年間で、14回も最下位を経験している。初めてAクラスに入ったのは1969年(勝率5割8分9厘)。初めてリーグ優勝したのは1979年と、当時の12球団の中で最も遅かった。

 1979年以降の26年間でリーグ優勝は4回。鈴木啓示、阿波野秀幸、野茂英雄、岩隈というリーグを代表するエースがいた。大石大二郎、小川亨、羽田耕一、栗橋茂、中村紀洋、鈴木貴久、タフィ・ローズなど個性のあるバッターもたくさんいた。西本、仰木彬、梨田という優勝監督も、4度敗れた日本シリーズも……。2004年、すべてが「過去のチームの歴史」になった。