枯山水の庭園に比べ、イングリッシュガーデンは「散らかっている」ように見えるかもしれない。しかしそれと美しさは同列に語れない(写真:gugu3151/PIXTA)

ベストセラーを生み出し続ける作家、森博嗣氏の創作過程には、「創作ノート」や整った設計図はありません。身の回りに大量の模型と工具を置き、短時間で仕事と趣味を行き来して、思いつきや発想を重視するその仕事のスタイルは、「集中」や「効率」とは無縁のようです。

『アンチ整理術』の著書でもある森博嗣氏の独特な仕事術には、クリエイティブな発想やイノベーションが求められる現代のビジネスへのヒントがあります。

分散型の仕事術?

僕は、デビューしたときからずっと、創作ノートというものを持ったことがない。小説のプロットは書かない。あらかじめストーリィを決めておくようなこともしない。テーマなんて考えないし、誰が登場するか、どんな結末になるかも、まったく白紙のまま執筆を始める。

事前に考えるのは、作品のタイトルである。これは半年ほどかけて考える。百くらいは候補を挙げて、その中から選ぶ。編集者Y氏が、キャッチコピィが苦手だと話していたが、それは単に、時間をかけたことがないというだけだと思う。手法としてあるとしたら、時間をかけて、思いつくまで延々と考えることである。

思いつくことが、創作の起点である。なにかを思いつくから書ける。書いている最中というのは、単なる労働。頭にあるイメージを書き写しているだけの作業で、非常に疲れる。だから、10分か15分ほどでやめて、別の作業をすることにしている。

別の作業とは、庭でスコップを使って土を掘ったり、近くの草原で模型飛行機を飛ばしたり、庭園内に敷かれた線路を鉄道に乗って巡ったり、犬たちと遊んだり、なにかを作ったり、といった複数のことだが、それらをぐるりと回ってきて、再び10分ほど文章を書く。こうして、1日に4、5回文章を書いている、というのが現在の僕の作家活動である。

小説以外のことをしているときに、小説のことは一切考えない。ストーリィをどうしようなんてまったく頭にない。それぞれの作業に没頭するだけだ。それくらい、僕は厭き性なのである。少しのめり込むと、自分でブレーキをかけて、次の作業へシフトする。

作品のタイトルを考える場合も、とにかく時間をかける。でも、ずっと何時間も考えるのではなく、10分くらいで切り上げて、別のことをする。ただ、ときどき思い出すから、そのつど1分ほど考える。良い思いつきは、別のことをしているときに突然表れる。本当に良いものはピンとくるから、「ああ、これだな」とわかる。

思いついたことを、メモはしない。メモしないと忘れてしまうようでは、インパクトがないわけで、そもそもアイデアとして失格だからだ。

思いついたときは、それを過剰に評価する。時間が経つと、それほどでもないな、と冷静に見ることができる。だから、メモをわざとしないで、忘れるか忘れないかという篩(ふるい)にかけて、アイデアを吟味しているのである。

思いついたものを、「ああ、これだな」と評価することは、発想とはまた別の思考である。こちらは、経験やデータに基づいた計算だ。沢山のものを思いつき、それらを使ってきた経験から、しだいに洗練された評価ができるようになる。

初心者には、この思考がないから、思いついても、良いか悪いかがわからない。したがって、思いついたものを経験者に見せにいく、というのが仕事の仕組みとしてある。幾つも、良いか悪いかを教えてもらううちに、自分でもだいたいわかってくるだろう。

求められる才能は散らかったもの

この良いものと駄目なものの判定は、「方法」がある程度確立できる。抽象的であるが、方法論が語れる。経験者はこれを教えてくれるだろう。だが、その判定ができるからといって、発想できるわけではない。思いつけるかどうかは、また別の才能だからだ。

このことは、編集者には、売れる小説がわかっていても、自分でそれを書くことができない、という事実にもつながる。創作には、最初の思いつきが、絶対的に必要なのである。

たとえば、小説だったら、作者がオリジナリティ溢れる作品を書けば、文章が酷いとか、表現が変だとか、そういった瑣末(さまつ)な部分は、すべて編集者が直せる。そういったサポートができる、経験も能力もある人が沢山いる。でも、めちゃくちゃでも良いから、最初に発想を書き上げる人が、求められているのである。

出版社が欲しい才能は、整っている必要はまったくない。むしろ、散らかったままの作品の方が良い。こぢんまりとまとまっているとか、売れそうな要素を上手に取り入れているとか、人気が出ている既成作品に似ているとか、そういったものが求められているのではない、ということである。

そうなると、戦略を立て、こうすれば売れるものが作れる、という手法では駄目だという結論になる。実はそうは言い切れない部分もあるけれど、おおむねこの傾向にあるといっても良いだろう。戦略や修正は、もう少しあとの話であり、装飾的な部分で活かせる。あくまでも、本質は最初の発想にある。

先日、『集中力はいらない』という本にも書いたことだが、集中力が求められる仕事は、機械のように正確に同じことを繰り返すような作業だったのである。そのような方面では、人間は機械に太刀打ちできない。そもそも人間がするような仕事ではなかったということだ。逆に、創作的な作業では、むしろきょろきょろと辺りを見回す「落ち着きのない」思考が大事で、発想はこういった状態から生まれやすい。

だから前回記事でも触れたように「片づける必要はない」という話になるし、そもそも創作的な仕事をしている達人の仕事場は、既にそうなっているはずである。散らかっている方が効率が良いことを、経験的に知っているから、自然にそうなっている。整理・整頓して効率を高めよう、などと考えることがない。そういう概念さえないかもしれない。

例として、庭園の話をしよう。枯山水の庭園をご存じだと思う。自然を表現しているものだが、非常に人工的で、シンプルに再現された傑作である。あれは極めて整っていて、秩序を感じさせる。手入れや維持は大変だろう。しかし、本質を追究した結果見えてくる世界観かもしれない。これは、整理・整頓され、精神を集中して得られるもののように感じられる。

一方、最近人気が出てきたイングリッシュガーデンは、一見雑然としている。雑草が生えているように見える。自然に近い状況を活かしている景観だ。

もちろん、人によって好みがあるから、同じイングリッシュガーデンでも、まるで違うものが存在する。つまりは、少しずつ人が手を加え、修正を繰り返している自然といえるだろう。

イングリッシュガーデンは、「散らかっている」と見ることができる。少なくとも、枯山水よりは雑然としている。しかし、どちらが美しいか、となると、人によってそれぞれだ。枯山水の製作や維持には集中力が必要だが、イングリッシュガーデンでは、日々のちょっとした観察と、あれもこれもという目配りや、バランス感覚など、集中力ではない能力が要求されるだろう。

大事なことは方法論ではない

少し俯瞰すれば、文化の価値も多様化しているということだ。人の感覚は、それぞれで自由である。自分が思い描いたとおりのものを実現していくことが、すなわち自由であり、その人の人生の目的だ。他者と同じである必要は全然ない。

そんな多様化した時代に、昔ながらの整理術が役に立つだろうか?

もちろん、役立つ場合もあるけれど、それですべてが解決するわけではない。大雑把にいうと、整理・整頓をして、気持ちが少し良くなる、という効果は認められる。小学生のときに掃除当番をさせられたことを、懐かしく思い出すノスタルジィは得られるかもしれない。それも、悪くはないけれど、現在のあなたの人生の本質を変えるほどのパワーはないだろう。


人は、どんな場所でも歩くことができる。走ることもできる。アスファルトの道路が走りやすいけれど、舗装されていない場所も歩ける。水の上は歩けないけれど、泳ぐことができる。どこへでも行くことができるのだ。

どうやって歩けば効率的か?どんな環境が歩きやすいのか?

歩き方を改善すれば、もっと速く歩けるはずだ。良い環境を整えれば、もっと楽しく歩くことができるだろう。そう考えて、歩き方や歩く場所の改善に頭を巡らすのが「方法論」である。

しかし、そうではない。大事なことは、あなたはどこへ向かって歩きたいのか、なのである。