【ビーチフラッグス・和田賢一が追求する“走りの技術論”|第3回】一緒に走って気づいた他の選手との“接地音”の違い

 26歳で和田賢一の100メートルのベストタイムは11秒8だった。全国の陸上クラブと次々にコンタクトを取り「10秒台で走りたい」と訴えたが「走るのは才能だから」「26歳では伸びしろがない」と受け入れを断られた。

 和田は100メートルと200メートルの世界記録保持者であるウサイン・ボルトらが所属する、ジャマイカの「レーサーズ・トラック・クラブ」でも同じことを尋ねた。するとコーチから返って来た答えは真逆だった。どれだけ見当違いなことを言い出すんだという調子で、彼は笑った。

「ウチのクラブは、みんな世界記録や9秒台を目指し走っているんだ。10秒台? もちろん可能だ」

 コーチは、和田の走りを一見して言った。

「どうして踵を着いて走るんだ。スパイクには前の方にしかピンがついていないだろう?」

 和田自身は、踵を着いて走っているつもりはなかった。しかし大学時代に陸上を専門として来た先生から、「和田はマラソンのように100メートルを走るんだな」と言われたことを思い出した。

 コーチはシンプルに一言加えた。

「膝を高く上げてみろ」

 しかし立った状態で意識をすればできるが、実際に走り出すと膝が上がらない。

 一方で和田が気づいたのは、他の選手たちとの接地音の違いだった。つまり瞬時に地面を叩きつけるパワーが違う。和田は思った。

「同じ“走る”という単語を使っていても、彼らが描くイメージと、自分が思い込んでいた動きは、まったく別のものじゃないのか。それなら彼らの動きを習得すれば、タイムも縮まるはずだ」

 さらにウェイトトレーニングに移ると、一層相違点が浮き彫りになった。ウェイトトレは、和田の得意分野だった。例えば腕立て伏せなら、2番目の選手の倍以上の回数をこなした。ところが逆に1人取り残されるように、圧倒的に劣る筋力があった。それは爪先を下から直角に押し上げる力だった。和田は、ここに重要なヒントがある、と確信し仮説を立てた。

仮説に微調整を加えながら見えた「走る技術」の全貌

「ジャマイカのトップスプリンターたちは、自分より足を入れ替えるタイミングが速いのではないか。実際に片足が地面に着くタイミングで、もう逆足の膝を上げ切っている。彼らは自分とは、まるで違う方法で地面を捉えているから、接地時間が短いのではないか」

 走る技術の全貌が見え始めた。

 振り上げた足はそのまま地面に下ろすだけだが、接地した逆足は重力に逆らって長い距離を移動していく。普通は片足が接地する時点で、膝は上がりきらない。片足が接地した瞬間に膝を上げきるためには、地面からの大きな反発を活かす必要がある。だからジャマイカの選手たちは、爪先を持ち上げる強靭な筋力を備え、大きな接地音を響かせていたのだ。

 和田の課題は明白になった。それまで使ったことのなかった足首の筋力を鍛え、瞬間的な接地で最大限の反発力を引き出していくことだった。それが可能になれば、片足が接地した瞬間に逆の膝を上げきる高速回転が可能になるはずだった。

 和田は仮説に微調整を加えながら、何十回、何百回と実験を繰り返した。そしてジャマイカへ来て1カ月半ほどが経過した頃だった。

 和田の走りを見て、まずロンドン五輪(2008年)200メートル銅メダリストのウォーレン・ウィアが「今のはいいぞ」と言った。

 そしてコーチも続いた。

「腕振りが良かった」

 結局下半身の動きを改良した結果、それに伴って腕振りも改善されていたのだった。

 振り返れば、コーチは最初に肝心なポイントを伝えていた。

 踵から接地したのでは、バネが使えず、地面からの反発力を活かせない。足が遅い人は、接地時間が長く後ろ足が残ってしまうので、重心が低くなりブレーキがかかるという悪循環に陥ってしまう。和田はジャマイカの選手たちと比べても、足を振り下ろす力は変わらなかった。しかし接地してから跳ね返ってくる力がまるで違った。

 それから和田は、接地する際に反発力を高めるトレーニングを考案した。ミニハードルを飛び越えて、踵を着かずにピタリと止める。走行中の接地時間はコンマ1秒。その一瞬で体の各部位を適正な位置に固定する筋力がつくと、反発力が増すことが分かってきた。

一途に打ち込む姿を見て、ボルトが自宅にも招待

 そもそも英語では、ランニングとスプリントが明確に分かれている。当然双方のテクニックは異なり、速く走るには文字通りスプリント(バネ)を活かす理論に基づく動きが求められる。実際ジャマイカにはスプリント理論があり、和田が到達した動きを「サイクリング」と呼んでいた。

 上体を真っ直ぐに立てて、足裏前方で地面を叩き、弾みをつける。その勢いを利して、振り下ろした前足と入れ替え、回転していく。

 日本では、そこに無意識に近づいたのが「足の速い人」で、そうでない人たちは才能のない鈍足と諦めていた。

「レーサーズ・トラック・クラブ」の練習は過酷だった。しかし和田はさらに毎朝1人で汗を流した。そんな一途に打ち込む姿を見て、ボルトが自宅にも招待してくれた。「Chin(中国人の略)」「JAPAN」「ケン」と変遷したチームメートからの呼称は、最後に「Brother(兄弟=親しみの最上級表現)」に変わっていた。

 3か月間を過ごして帰国した和田は、100メートルを10秒8で駆け抜けた。

(第4回へ続く)

[プロフィール]
和田賢一(わだ・けんいち)

1987年12月8日生まれ。日本のビーチフラッグス第一人者でビーチフラッグス全日本選手権3連覇、世界最高峰の全豪準優勝。走力を磨くために単身ジャマイカに乗り込み、3カ月間ウサイン・ボルトとともにトレーニングを積み、100メートルのベストを一気に1秒更新。誰でも速く走れる「走り革命理論」を確立し、トップアスリートをはじめ日本中へと広め、走ることの成功体験を通じ、子供が夢に向かって一歩を踏み出す勇気を届ける講演を行っている。(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記〜青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。