殿上湯の5代目オーナーの原延幸さん(44歳)に、銭湯オーナーを始めるまでの道のりと、イベントやワークショップなどの新しい取り組みについて話を伺った(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第70回。

地元民にも、イベント好きにも、愛される銭湯

殿上湯(でんじょうゆ)は東京都北区西ヶ原にある銭湯である。

築50年以上の老舗の銭湯で、地下135メートルから組み上げた天然水を使用したお湯が自慢だ。


この連載の一覧はこちら

定休日の金曜日を除いて、毎日16時から23時まで営業しているが、日曜日は朝8時から朝湯を提供している。朝から、銭湯でひとっ風呂あびるなんてとても粋だ。

そんな昔ながらのしっかりとした銭湯だ。

ただし銭湯は、家風呂の普及とともにやむなく年々数を減らしている業種だ。

東京都内の銭湯の数を見てみると、2005年には1025あったが、2018年には544と約半分の数になっている。経済産業省によれば2015年度末の時点でいわゆる銭湯のイメージとなる「一般公衆浴場」は全国に3740施設。実は私営の入浴施設、約2万1400施設のうち、銭湯は5分の1以下。残りはスポーツ施設、ヘルスセンター、レジャー施設、エステティックサロンなどに設置された入浴施設などだ。

つまり「しっかりとした銭湯」であるだけでは、営業を続けていくのは難しく、基本的には斜陽産業といえる。

そこで、殿上湯は、新しい試みにも果敢にチャレンジしている。

銭湯の場をイベントやワークショップのためのスペースとして貸し出している。映画を上映したり、楽器の演奏会を開いたりなどのほか、オリジナルのグッズの販売などにも精力的だ。

どれも盛況で、地元の人たちにも、イベント好きな人たちにも、愛される銭湯になっている。

殿上湯の5代目オーナーの原延幸さん(44歳)に、銭湯オーナーを始めるまでの道のりと、始めてからの新しい取り組みについて話を伺った。

原さんのひいおじいさん、ひいおばあさんは、東京都内で3軒の銭湯を経営していた。

店舗は阿佐ヶ谷、巣鴨、動坂にあったが、第2次世界大戦の空襲で3軒とも焼けてしまった。その際、ある人の資金提供もあり、なんとか建て直して営業を再開した。しかし、その人の資金繰りが苦しくなったのに加えて、ひいおじいさんが連帯保証人になっていたため、3軒すべてをなくしてしまった。

「今まで風呂屋しかやってこなかったんだから、ほかに何をしていいかわからない。これからも風呂屋をやろう」

という話になり、西ヶ原にある銭湯物件を購入して引っ越してきた。

そこが現在の殿上湯である。

もう、50年以上前の話だ。

「僕は風呂屋で生まれて、ずっと風呂屋で育ってきましたね。ただ、だから特別にどうだってことはなかったですけど。ほかの商売やってる子と変わらない感じだったと思います」

幼稚園の頃から、大人が作ったルールに反発していた

原さんは小さい頃から、反発心の強い子だったという。

「幼稚園の頃から、大人たちが作ったルールというのに反発してましたね。お遊戯とか見世物になってるみたいで大嫌いでした。歌を歌ったらお菓子もらえるって、俺たちは動物じゃねえぞ!! って。ひねくれていたんですね(笑)」

小学生の頃から勉強の成績はあまりよくなく、先生に

「どこがわからないんだ?」

と聞かれても

「どこがわからないんだか、わからない」

というくらい、苦手だった。

「当時は今以上に学歴社会だったから

『偏差値の悪い学校に行ったら未来はない!!』

みたいなこと学校や塾でよく言われましたね。僕はひねくれていたんで

『お前らが思ってもみない形で未来を作ってやる』

と思ってました」

小学校時代は、将来、銭湯を継ごうとはまったく思っていなかった。周りの子供たちと同じように、野球選手やプロレスラー、漫画家などに憧れをもったものの、まだまだ漠然としていた。

「銭湯を継ぎたいとは思ってなかったけど、小学生の頃から銭湯の手伝いはしてましたね。掃除とか店番とか……。どこも自営業者の人はそうでしょうけど」

小学校の頃、お風呂で父親の背中を流した。すると入れ墨の入ったオジサンに

「お兄ちゃんえらいなあ。背中流して」

と話しかけられた。自分の父親に

「オジサンの背中も流してやれよ」

と言われたので、タオルに石鹸をつけて流した。

「入れ墨は見慣れてはいたものの、絵が描いてあるのはやっぱり不思議で『これ落ちるの?』って聞いたら、『お兄ちゃんが一生懸命こすったら落ちるよ』って言われて、一生懸命こすりましたね」

もちろん入れ墨はこすっても流れることはない。オジサンは、

「まだまだ子供だなあ。力が足りないんだよ」

と笑った。オジサンの背中は真っ赤になっていて、湯船に入る時にちょっと痛そうにしていた。

「そうやって大人といいコミュニケーションが取れていたと思います。今は入れ墨が入った人を入浴禁止にしているところもあるけど『公衆浴場』なんだから基本的には全員入れなきゃいけないと思ってます。

それに経験では、入れ墨入った人が問題起こしたこととか1回もなかったですしね。入れ墨を入れている人は職人さんが多く、興味深い話を聞かせてくれました」

『バカでも生きてる!!』高校時代

高校は、スポーツが盛んな学校に行った。

ケンカが頻繁にあり“やんちゃ”な校風だったが、それはそれで楽しんでいた。

「高校は同じレベルの人が集まるじゃないですか。『バカでも生きてる!!』と思って楽しかったですね。

高校生になると、親が『ちょっと出かけたい』って言ったら『行ってくれば』って言って、銭湯を全部1人で回してましたね。

お湯を沸かして、店番に立って、鍵を締めて、最後に掃除する。任されたことは、責任持ってやる、ということだけ考えてました」

高校卒業後は就職して、アシスタントカメラマンとして働きはじめた。ただ毎日、暗いスタジオに入り仕事を待つ日々は、活動的な原さんにはじれったく感じた。

そんな頃に、原さんはスノーボードに出会った。

昭和の終わり頃は現在よりも、ずっとスキーを楽しむ人が多かった。1987年に公開された『私をスキーに連れてって』は大ヒットして、若者たちはこぞってスキーを滑りに行っていた。

原さんは、子供ながらスキーに憧れを思っていた。原さんが大人になった頃、バブル経済が終わり、スキー文化が下火になってきた。ただ、その代わりにスノーボードが入ってきた。

「スノーボードのビデオを見て完全に火がつきました。会社には『冬山に行きたいから、やめさせてくれ』って言って退社しました。それでその足で、板とスノーウェアだけ持って、東北に行きました」

今のようにインターネットで調べることはできないから、とにかく現地に行って住み込みができる場所を探した。

何とか、岩手のとあるペンションにたどり着いた。

スノーボードざんまいの岩手生活

「ペンションに住み込みで働かせてもらって、空いている時間はひたすらスノーボードをしていました。

岩手でもいっぱい仲間ができました。もちろん同い年のやつらもいたし、新しい文化を面白がってる大人もいたし、海外から来てる人もいました。すごい触発されました。東京では得られない刺激を受けましたね。1人で行ったのがよかったんだと思います」

冬はスノーボードざんまいで過ごし、シーズンが終わったらひたすら働いてお金を貯めた。

「冬以外は、トラックの運転手をしました。昔、シルベスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』という腕相撲をテーマにした映画があったんですけど、主人公はトラック運転手で普段コンボイに乗ってるんですよ。それに憧れました。トラック運転手は、自由ではないけど、1人でなんでも決められてよかったですね。

昔からAMラジオが好きだったんで、ずっとかけっぱなしで。昔から文字を読むのが苦手で、ラジオがいちばんの情報源でした」

18歳からスノーボードを始め、24歳まで毎年滑りに行った。住み込みをしたのは最初の2年くらいで、それ以降はアパートを借りて生活をしつつスノーボードを滑った。

スノーボードの人気はだんだん上がり、ウィンタースポーツ商品を扱う店はずいぶん儲かっていたという。

「やっぱり今よりは景気よかったんでしょうね。みんな毎年のように板もウェアも買い替えてたし。ちょっと頑張って働いたら、当たり前に自動車買ってたし。贅沢してるって感覚はなかったですね」

1998年からスノーボードは冬季オリンピック競技に選ばれた。ただし原さんはあまりうれしいとは思わなかった。

「僕は、人気に陰りのあった冬季オリンピックが、はやっているスノーボードにすり寄ってきた、という印象を持ちました。それなのに、服装の着こなしがダメだ、態度が悪い、って選手をまるで犯罪者みたいに叩いたりするんですよね。そっちが寄ってきたくせに、って思いました。

ただスノーボード側も人気が落ちてくると、だんだんオリンピックにもたれかかるようになっていきました。この業界もつまんなくなったな……と思いました。

一度スノーボードから離れて、腰を据えて仕事をしてみようかなと思いました」

そこで大型免許を取り、トラックの運転手として全国を回った。何週間も家に帰れなかったり、満足に寝れなかったりした時もあったが、仕事は楽しかった。

「手を借りたい」、家業を手伝うことに

「その頃からうちの親が歳を取ってきたこともあって、『手を借りたい』って言われました。はじめはほかの仕事をしながら手伝いました。

銭湯のお客さんは、子供の頃に比べてずいぶん減っていました。でも一発逆転を考えるのではなく、当たり前のことをきちんとやろうと思いました。まずは徹底的に掃除をしました」

原さんが生まれる前、自宅風呂の普及率が低かった時代は、銭湯は殿様商売だった。家に風呂がないのだから、銭湯に行くしかない。

しかし原さんが物心がついた頃には、自宅風呂の割合はかなり上がっていた。

「本当はその段階で手を打たなきゃいけなかったんだと思います。家にお風呂があっても、月に1回、週に1回、来たくなる銭湯にしておかないといけなかったんですね。

お客さんが減っていくことを、ただただ嘆いていても仕方がないんです。もちろん助成金はとても大事ですが、それに頼ってしまうとよくない。助成金なんて、いつ打ち切られるかわかりません。基本的には自分たちの努力で稼いでいかないといけません」

30代後半から銭湯1本で働き始めた。

日曜日に、朝風呂を始めることにした。チラシをまいただけでお客さんは来てくれた。ただそれを持続すること、そしてさらに拡大していくことは想像以上に難しかった。

「アイデアはあったんですけど、時間や気力を確保することが難しく、なかなか実行できませんでした。数年間はなんとか営業しているだけという日々が続きました。

いっそこのまま銭湯はスパッとやめて、売ってしまおうかと考えていました。そのお金で両親にはゆっくり過ごしてもらって、自分はほかの仕事をしようかと思いました」

そんな40歳ごろ、現在の妻となる女性に出会った。

素直に「こういう現状なので、いっそ銭湯をやめようかな?と思っている」と伝えると、

「もったいないから続けようよ。協力するから!!」

と言ってくれた。

「奥さんはメディア関係のプロモーションの仕事をしていました。情報を集めるのも、発信するのもプロなんですよね。僕がやりたいことを言えばすぐに調べてくれるし、イベントの宣伝もしてくれました。僕がなんだか嫌でやっていなかったSNSも妻のすすめで始めることになりました」

SNSの影響力で、アイデアがどんどん実現化

殿上湯の公式ホームページは、老舗銭湯のホームページとは思えないほど洗練されている。


ピアノの演奏会(写真提供:原延幸さん)

ホームページ内の、フォトギャラリーでは銭湯の様子や、今まで開催してきたイベントの様子を見ることができる。

また、ツイッターでは“殿上湯の嫁”というアカウントで、原さんの奥さんがゆるい雰囲気で情報をつぶやいている。ツイッターで居候(住む部屋とご飯を提供するので、掃除などの手伝いをする人)を募集したところ、2000近いリツイートがあった。

「インプレッション(ツイートを見られた数)を見たらかなりの数になっていて、こんなにも影響力があるんだ、ってビックリしました。

そういう環境になったので、どんどんアイデアを実現化していきました。お風呂の中でイベントをやりたいと思っていたので、実際にやってみました」


和太鼓の演奏会(写真提供:原延幸さん)

風呂場にピアノを入れて演奏会をしたり、風呂場にやぐらを組んで和太鼓の演奏会をしたりした。

たくさんの集客があり、ニュースとして報道もされた。

「口笛で世界一という男の子をよんできて、風呂に入りながら口笛を聞く、というイベントも開催しました。

子供の頃、お風呂に入ってた時に、すごい口笛の上手いおじさんがいたんですよね。それを聞いているのがすごく楽しくて、やりたかったんですよ」

銭湯と言えば、風呂上がりに瓶の牛乳やコーヒー牛乳を飲むのが楽しみだという人も多いだろう。

日曜日の朝湯の際に、“朝湯カフェ”という催しを開催していた。お風呂に入った後に、番台の前にテーブルを出してコーヒーを楽しんでもらっていた。


「珈琲牛乳フェス」は予想以上の来場者でにぎわった(写真提供:原延幸さん)

その延長線上での企画で、カフェを経営している人たちに集まってもらい、本格的なコーヒー牛乳を提供した。それと同時に、各店舗で出しているケーキやサンドイッチも提供した。

「100〜150人くらいの人がイベントに参加してもらえれば御の字かなと思っていたんですが、ふたを開けたらはるかに超えてしまって。コーヒーはいれっぱなし、食べ物はなくなっちゃって追加分をお店に取りに行く、とあたふたしてしまいました。

ちゃんと企画を立てて、イベントをしたら、みんな来てくれるんだな、と実感しました」

自分のお店のロゴをTシャツや入浴剤、せっけんなどにプリントして販売している銭湯は少なくない。殿上湯も、オリジナルのグッズを販売している。

敷地の一部をシルクスクリーンの製作所にする計画も

「ただ、ロゴをのせるだけではつまらないなと思うんですよね。どうせなら風呂屋から、ストリートブランドを発信したいなって。絵がうまくてデザインもできる友達に頼んで、作品作ってもらいました」


デザインのできる友達に頼んで作ってもらったTシャツを着る原さん(筆者撮影)

インタビューの日に原さんが着ていた、骸骨がマッサージ機に腰掛けているオシャレなTシャツがその作品の1つだった。普通に着たくなる、カッコイイTシャツだと思った。

原さんのスケーター(スケートボードをプレイする人)の知り合いは、自分たちでシルクスクリーンの型を使ってオリジナルTシャツを作る技術を持っていた。敷地の一部を改装して、シルクスクリーンの製作所にする計画もある。

「お風呂はいる前に、ボディー(服)とデザインを選んでもらってその場で刷って、帰りには着て帰ってもらうとかもいいなと思ってます」

殿上湯は、ランニングのスタート&ゴールとしても提供している。

荷物を殿上湯のロッカーに預けてランニングをした後、銭湯に戻ってきてひとっ風呂浴びる。ランナーにはとても気持ちがいいサービスではないだろうか?

また銭湯以外にもサービスを提供している。

もともと殿上湯の近くに、賃貸アパート物件を持っていたのだが、最近では民泊として提供している。

「旅館業法でとりたかったんですけど、許可がおりませんでした。昨年、民泊新法がスタートして、180日まで貸すことができるようになりました。現状、ほぼすべて埋まっています。アパートとして貸すよりずっと利益がでますね」

民泊の客の多くは、欧米人だという。


民泊で提供している部屋。畳敷きのシンプルなつくり(筆者撮影)

室内は畳敷きのシンプルな部屋なのだが、それがアメリカ人やヨーロッパ人には受ける。

「スノボーをやってた時などに、海外の友達はたくさんできました。たくさん話して、彼らが日本に何を望んでいるかはわかってました。結局、畳が敷いてある部屋に泊まって、銭湯に入るというのが、いちばんなんですよね」

原さんは、今までの人生で得てきた人脈や、アイデアを全部、銭湯にぶちこんでいる。

殿上湯の活動は話題になって、集客も増えている。

ただ人気の原因は、原さんの努力の成果だけではないという。

現在、銭湯が注目されているのは、若者たちによる銭湯ブームの影響が大きい。銭湯好きな若者たちが、ネットを使って銭湯の情報をシェアしたり、自らオーナーになって銭湯を切り盛りしたりして注目を集めている。

例えば東京銭湯というウェブメディアでは、日々新しい銭湯の情報や、コラムを発信している。銭湯ファンは増加し、いろいろな地域の銭湯に入る人も多い。

今はいろいろなことにチャレンジして、力を蓄える時期

「銭湯ブームはとても追い風になっています。銭湯のオーナーなら、このブームに乗らない手はないですよね。

でもブームに流されるだけじゃなくて、自分たちでしっかりと風をつかまないといけないと思います。今はいろいろなことにチャレンジして、力を蓄える時期だと思います」

原さんは、現在の銭湯は、“頑張っている銭湯”と“嘆いている銭湯”の二極化が進んでいると感じる。嘆いている銭湯は、今そういう追い風が吹いていることにも気づいてないかもしれない。

「でもそういう“嘆いている銭湯”にも追い風は吹いてお客さんは増えてると思うんです。ただ1〜2人増えても営業は楽にならないから気づかないかもしれない。でもいま頑張れば、10人、100人とお客さんを増やせるチャンスだと思います。

ただもちろん不安はあります。ブームはいつか去ります。僕はそういう浮き沈みを見てきました。いいと言われてる今、いかに危機感を持って頑張るかが大事だと思っています。1人の客を増やすのは本当に大変ですけど、10人の客を減らすのはあっという間ですからね。

再来年にリニューアル工事をするのですが、どのようなアイデアを詰め込んでいこうか、日々考えています。そうやってこれからもずっと、老後になっても楽しく、生きている限り動いていたいですね」

原さんは笑顔で話してくれた。

殿上湯には伝統的な銭湯のノウハウだけではなく、原さんが今まで出会った人たちや、経験した物事が、すべて集約されているようだ。昭和の懐かしい雰囲気がありながら、新しい試みに満ちてウキウキする銭湯だと思った。