日本ラグビー界には古くから海外出身者を受け入れてきた歴史と土壌があります(写真:AP/アフロ)

ワールドカップで快進撃を続けるラグビー日本代表。今大会、その成績もさることながら、注目されるのが「海外出身」選手の多さだ。メンバー31人中、実に15人が海外出身。なぜこんなにも多いのか。

ラグビーの代表資格が「国籍主義」ではなく「協会主義(地域主義)」、つまりどの国でプレーしているかによること、また、戦力補強の側面ももちろんある。しかし、本当に知るべきは、日本ラグビー界には古くから海外出身者を受け入れてきた歴史と土壌があったということだ。ノンフィクションライターの山川徹氏が歴代の海外出身の日本代表選手にインタビューを重ねた『国境を越えたスクラム』(中央公論新社)より、ハイライトを紹介する。

知られざる、トンガ勢のルーツ

海外出身選手の中で一大勢力となっているのがトンガ出身選手だ。今回のワールドカップメンバーにも、ヴァルアサエリ愛、中島イシレリ、ヘルウヴェ、アマナキ・レレイ・マフィ、アタアタ・モエアキオラらが名を連ねている。彼らは全員、高校や大学時代に留学生として日本にやってきたが、日本ラグビーにおけるトンガ人留学生の歴史はことのほか長い。

始まりは “ソロバン留学”だった。同書によると、1975年に大東文化大学ラグビー部がニュージーランド遠征した際に、ラグビー部部長の中野敏雄氏がトンガに足を延ばしたことがきっかけとなり、トンガ王室との交流が生まれる。当時のトンガ国王は大の日本びいきで、宮廷でソロバンの大会などを開いていたという。

やがてソロバン指導者育成のためにトンガ人青年を日本に留学させる計画が持ち上がった。その際に中野氏が、ソロバンと勉強漬けではストレスがたまるからと、彼らにラグビーをさせることも提案した。かくして、トンガ代表として活躍していたノフォムリ・タウモエフォラウと、1歳年下のホポイ・タイオネの2人に白羽の矢が立ち、大東文化大学に送り出されたのだった。

彼らは日本ラグビー界が初めて迎え入れた海外からの留学選手であり、前者のノフォムリは後に日本代表にまで上り詰める。とはいえそこに至るまでの過程は順風満帆ではなく、来日直後は苦労も多かったという。1980年4月6日、成田空港に降り立ったときの日本の第一印象についてこう述懐している。

「メチャクチャ寒かったですね」

「寒いし、言葉も分からないし……。建物も車も風景もすべて違う。もう不安ですね。すぐに帰ろうと思った」(P39)

実際に生活を始めても、言葉と食の問題という、海外で暮らす誰もが経験する壁にぶちあたった。ホームシックにかかり、ソロバン塾の温泉旅行に参加した際に寂しさのあまり2階から飛び降りようともしたという。文化の違いに苦しみながらも、ピッチでは異次元のプレーを見せ活躍した。ノフォムリの存在は、日本とトンガとの架け橋になり、後のトンガ出身選手たちの道しるべになったという意味でも大きい。

ノフォムリの数年後に来日し、大東文化大学、三洋電機と同じコースをたどったシナリ・ラトゥも「彼がいなければ、こんなにトンガ人選手が活躍できたかわからないですよ」と語っている。来日してからの苦労もラトゥの場合は少なかった。すっとなじむことができたという。

「大東大のみんなも、ウェルカムっていう感じで受け入れてくれたしね。言葉が分からないのに部屋に遊びにきてくれたり、一緒に飲んだりしたね。でも、それはたぶん、ムーリー(ノフォムリの愛称)のおかげ。きっとパイオニアとして、私たちが知らない苦労をしたんだと思いますよ。私たちも本当にサポートしてもらいました」(P28)

ちなみにノフォムリは、2015年ワールドカップ日本代表の中心メンバーだったホラニ龍コリニアシとも関係が深い。血縁関係があり(ノフォムリはホラニの伯父にあたる)、ホラニが留学した埼玉工業大学深谷高等学校(現・正智深谷高等学校)でトンガ人留学生の選抜を担当したのがノフォムリだった。ホラニ自身はトンガ時代にラグビーをしていなかったが、子供の頃からノフォムリのプレーに憧れていたという。

高校ラグビー初の留学生

次に同書から取り上げたいのは、“高校ラグビー初の留学生”ブレンデン・ニールソン(現:ニールソン武蓮傳)である。

ブレンデンは1990年代初頭に、ニュージーランドから東北の仙台育英高校に留学してきた。ブレンデンと同世代で山形中央高校ラグビー部に所属していた著者は、東北大会で実際にプレーを目の当たりにし衝撃を受けたという。

そのシーンはいまだに覚えている。

土埃が舞い上がるグラウンドで、試合がはじまっていた。ボールを持つ一人の選手に目が釘付けになった。

イエローを基調にしたジャージの仙台育英7番。ヘッドキャップからはみ出した金色の長髪をなびかせて、頭から飛び込んでタックルしてきた相手を片手でハンドオフ(手のひらで相手を突き飛ばすプレー)していた。

ガイジンだ……と思った。東北の片田舎と、外国人選手。そのミスマッチを受け入れるまで少し時間がかかったような気がする。(P94〜95)

本場ニュージーランド仕込みのセンスあふれるプレーもさることながら、まだ在日外国人の数自体が今よりずっと少ない時代、その外見の「見慣れなさ」も大きかった。

ブレンデンは仙台育英高校時代は、同校2度目の花園出場の原動力として活躍、流通経済大学を経て、NECグリーンロケッツやコカ・コーラウェストジャパンなどいくつかのチームを渡り歩いた。日本代表も経験している。

本書の記述を読む限り、来日当時ブレンデンが置かれていた状況は、他の海外出身選手と比べてもかなりタフなものだったのではないか。先のノフォムリの場合は“ソロバン留学”という形でいわば国のお墨付きであったし、同郷の仲間もいた。

その点、ブレンデンの場合は東北の地にたった1人だ。また仙台育英高校ラグビー部がブレンデンの受け入れを決めた際には、前例がないことなので、「勝利至上主義じゃないのか」という周囲からの批判もあったという。チームにもブレンデン個人にもやっかみの眼が向けられていたとしてもおかしくない。


事実、ブレンデンは高校日本代表入りに十分な実力を備えながらも「高校日本代表に外国人はふさわしくないのではないか」という声があり、見送られてしまったという。毎年必ず2〜3人は海外からの留学生がメンバー入りする現在とは隔世の感がある。

ブレンデンと仙台育英高校がパイオニアとなり、その後、札幌山の手、正智深谷、日本航空石川、目黒学院といった高校はラグビー留学生を多く受け入れ、多くの名プレーヤーが生まれた。ニュージーランドから札幌山の手高校に留学したリーチマイケルも、ブレンデンの歩みと似ているといえるかもしれない。

ブレンデンはひとつの道筋を作ったことに対して、社会全体の変化も踏まえてこう語っている。

「自分の人生を歩んできただけだから『オレのおかげだ』なんて胸を張るつもりはないけれど、ぼくが最初に高校から社会人までラグビーを続けたことで、留学生が日本でラグビーを続ける道ができた。ラグビーと留学生を通して、様々なつながりができたと思うんですよ。ニュージーランドと日本、トンガと日本、フィジーと日本……。たくさんの人が新しいオプションを選べるようになった。それに、留学生が増えたことで、外国人に対する日本人の見方も変わってきたような気がします。昔は“ガイジン”だからと距離を置かれることもあったけど、外国人が増えれば、どうしても向き合わなければならなくなるからね。いまの状況を見ると日本でプレーを続けて、本当によかったと思います」(P108〜109)

日本代表をポジティブに選ぶ海外出身選手

同書の終盤では、目下ワールドカップで大活躍中の現役選手たちも登場する。まず、「トモさん」の愛称で知られる38歳のトンプソンルーク。海外出身選手としてテストマッチ最多キャップ(試合出場)を誇るが、彼の場合は大学卒業後に日本にやってきたケースだ。2004年に三洋電機に入り、現在は近鉄ライナーズでプレーしている。

トンプソンは同じニュージーランド出身で、三洋電機でプレーしたフィリップ・オライリーの一言がきっかけになったという。

「トモ、2007年のW杯、ジャパンで出たいな」

すでにオライリーは、日本代表のジャージを手にしていた。
トンプソンは同胞の言葉に「そういう選択肢もあるのか」と感じた。

 〜中略〜

ちょうどそんな時期、日本代表のヘッドコーチだったジョン・カーワンから「ジャパンでプレーしてみないか」と声をかけられる。

「ジャパンでプレーするオライリーを見て、いいなと思ったんです。父に相談したら、面白いチャレンジじゃないか、と応援してくれた」(P231)

もっとも当時は日本で3年間過ごし、今からニュージーランドのラグビーに戻るのは難しいという本音もあったようだ。ただ、いま日本代表でプレーする海外出身選手は、日本代表というチームに価値を見出していることは確かだ。

もう1人紹介したいのが、日本代表のスクラムを最前線で支える具智元。韓国代表の伝説的プレーヤーを父に持つ具は韓国代表のオファーもあったというが、憧れのあった日本代表を選んだと、同書の中で語っている。

「ずっと日本代表に憧れていましたし、お父さんも『日本代表を目指しなさい』と応援してくれていたので迷いはなかったです。ぼくは日本で暮らしはじめて11年目になります。韓国と同じくらいの時間を日本で過ごしました。韓国だけではなく、日本も自分の国という意識があります」(P252)

助っ人感覚で、日本代表を選んでいる海外出身選手はいないだろう。自らの意志で、日本代表にバリューを感じ、彼らは桜のジャージを着ているのだ。