誠品書店を創業した故・呉清友氏。日本進出が悲願だった(写真提供:誠品書店)

アメリカのTIME誌に「アジアで最も優れた書店」と称される台湾の誠品書店が、とうとうこの秋、日本上陸を果たした。場所は、ビジネス・金融の中心である東京都中央区の日本橋。コレド室町テラスの2階フロアすべてを使った「誠品生活日本橋」だ。

台湾のみならず、中国本土、香港を席巻する誠品ブランドがなぜ生まれたのか。そこには、難病に苦しみながら、「生活と本」を結びつける書店づくりに生涯をかけて執念を燃やし、日本橋店の完成を見届けられずに他界した創業者・呉清友氏(ロバート・ウー)の壮絶な戦いがあった。

一夜にして日本人なら誰もが知る書店に

台湾から発展した誠品書店は、台北に3つの代表的な店舗を持つ。誠品敦南(ドゥンナン)店、誠品信義店、誠品松菸(ソンイェン)店だ。どれも個性が違って好みも分かれるが、日本橋店は、全体の雰囲気としては、1989年の創業店として知られる敦南店よりも、2013年にできた松菸店の店づくりに近い気がする。日本橋店では、約100ブランドの日台双方の雑貨やグルメ店舗が書店と同じフロアにずらりと並ぶ。

驚いたのは誠品書店の日本進出が、日本の主要テレビ、新聞、雑誌、ネットメディアによって大々的に報じられたことだ。誠品は一夜にして日本人が1度は聞いたことがある書店になった。

それだけ、日本人にとっても誠品書店の上陸は社会的な現象であり、単なる海外書店の日本進出を超えた意義があると受け止められているからだろう。

日本の書店は店舗形態の変革が遅れている。蔦屋書店はあるが、書店の主流はいまなお「紀伊國屋書店」「三省堂書店」「八重洲ブックセンター」など、本の販売に集中した店舗が多い。

しかし、いわゆる実体書店の経営は年々難しくなっている。そのなかで、書店を中心とした文化空間を都市に創造する誠品のスタイルは、日本の出版界・書店業界にとっても生き残り戦略上、注目に値する。

誠品書店は、中国大陸、香港などに早くから進出していたが、日本へは初めてであり、誠品書店にとっては50店目となる節目の出店だ。2017年に68歳で亡くなった創業者で伝説的経営者だった呉清友氏が最後に「ゴーサイン」を出した店でもある。

呉清友氏にとって、誠品の日本進出は長年の懸案であり、悲願でもあった。台湾に進出した日本の書店はあっても、日本へ進出した台湾の書店はない。しかも、中華圏以外では初めての海外進出だ。


オープン初日から大盛況となった誠品書店の日本橋店(写真提供:誠品書店)

誠品にとってもさらなるステップアップのメルクマールとして位置づけられ、呉清友氏もオープニングを心待ちにしていたという。先天性マルファン症候群という難病を抱え、心臓で3度の大手術を耐え抜いたが、とうとう力尽き、その事業は、かねてから後継者として育てていた長女の吳旻潔(マーシー・ウー)氏に引き継がれた。

誠品書店は、台湾カルチャーそのものと呼んでよいブランド力を呉清友氏のリーダーシップのもと創業以来育ててきた。台湾内外での賞賛の言葉は枚挙にいとまがない。

「アジアで最も優れた書店」という2004年のTIME誌の評価だけではなく、台北市長、台湾総統を務めた陳水扁氏に「台湾に百貨店は山ほどあるが、誠品書店は1軒しかない」と言わしめた。台湾の著名な作家・龍応台氏は「広大な地域に暮らす華人にとって、台北文化のランドマークが誠品書店。その成功には、社会の多様性や開放性が必要で、十分に成熟した読者層が必要だ」と語っている。

書店と画廊を併設した店舗を思いつく

これだけユニークな書店がなぜ台湾で生まれたのか。それは、書店を通して芸術や文化、生活に溶け込む「場の精神性」を作り上げたいという呉清友氏のこだわりが源であった。

呉清友氏は台湾の南部・台南で生まれた。高校卒業後、すぐビジネスに打ち込み、ホテルに海外製の冷蔵庫やキッチン設備を販売する会社「誠建」を立ち上げ、成功を収めた。1970年代は台湾の高度経済成長時代で、不動産投資でも多くの利益を上げた。

だが1988年に先天性マルファン症候群を発病し、最初の大手術を経験。それを転機に、呉清友氏は芸術や文化に対する関心を強めていく。最初は画廊を開くつもりだったが、やがて、書店と画廊を併設した店舗を出すことを思いついた。

「(休日に)台湾でビジネスマンはクラブやゴルフに行き、一般人は公園や映画に行く。ほかに行けるところがない」。そう考え、台北の中心部である敦化南路に大型店を立ち上げた。呉清友氏が38歳のときだった。

その店では毎週、毎日のように書籍に関連するイベントや講座、講演会を催した。当時の台湾では長く続いた戒厳令が解除され、民主化に向かって政治や社会に誰もが熱意を抱いていた。店はあっという間に台湾の文化拠点となった。

さらに打った手が24時間営業だった。誠品のような大型書店での24時間営業は世界で初めてだった。ただ、24時間営業にはリスクもある。人件費などのコストが売り上げに見合わない日も多い。夜には酔っ払いなどが入店することもある。だが、24時間営業を堅持する理由として、呉清友氏はこう語っていたという。

「読書は基本的人権であり、書店は誰もが平等な場所だ」

創業から15年間は赤字続きだった

私にとっても、いちばんインパクトがあったのは、誠品書店が24時間営業で本の座り読みを堂々と認めているところにある。夜、食事をした後、ふとこのままホテルに戻るのが惜しくなり、10時ごろに書店を訪れる。


台湾の誠品書店では、床に座って本を読むのが日常風景(筆者撮影)

そこではいすや床に座って本を読む大勢の人々がいる。本を1時間ほど読み、買ってホテルに戻る。「文化の中に自分がいる実感」を得られることは、台湾の旅で幸福を感じられる得難い旅のひとときであった。

そうして誠品書店は、台湾のみならず、中国、香港、韓国、日本、欧米からの観光客の姿をつねに見かける観光拠点にもなっていったのである。

その試みは、消費者から喝采を浴びたが、創業から15年間は赤字続きだった。不動産を次々と手放し、知人に金策を頼むことも珍しくなかった。その間、22.5億台湾ドル(現在の為替レートで約80億円)の増資を受けなければ経営を維持できなかったと呉清友氏は明らかにしている。

呉清友氏自身も、経営者としてオフィスに座っているのではなく、しばしば、誠品書店内に併設されたカフェのお気に入りの場所に座って仕事をしながら書店の社員を呼び出しては仕事の話をした。自身でも「書店は自分にとって(元気を注入する)ガソリンスタンドだ」と語っていたとされるほど、書店そのものを愛していたとされている。

併設するショップとの複合効果で、次第に経営が軌道に乗りだすと台湾内外で出店を増やす。中国の蘇州や深圳、香港のコーズウェイベイやチムシャーツイにも出店し、誠品ブランドはアジアに鳴り響いた。日本の蔦屋書店は誠品をヒントにしたとも言われている。

台湾の「遠流出版」経営者で、呉清友氏と深い交流があった王栄文氏はこう語る。「彼は、われわれの本を入れてくれるすばらしい『器』を育ててくれた。そんな器があることは、私のような出版人にも、本の作者にも、大きな喜びだった。誠品の成長の裏には、書店を生活文化のプラットフォームにしたい、という彼の理想があった」。


書店が読んでほしい本を薦める誠品選書の コーナー(写真提供:誠品書店)

王氏は、誠品書店が毎月選ぶ「誠品選書」は、単なる売れ筋の本ではなく、「書店が売りたい本、読んでほしい本を薦める書店の理想」だと説明する。

何年か前、この「誠書選書」には私の本の中国語訳も選ばれたことがあるが、その意義について当時あまりわかっていなかった私よりも、出版社の人々がとても喜んでいたことを思い出す。この誠品選書は、日本橋店でも中国語の「台湾選書」と日本語の「日本選書」が設置されている。

王氏はこう付け加えた。「神様は彼に病気というハンディを与えた。しかし、だからこそ、彼は最後の最後まで、理想の実現のために戦い続けたのかもしれない」。

トップ自ら細部のデザインにこだわる

呉清友氏は、出店のたびに天井の高さから照明など細部のデザインや書架の配置までこだわりぬき、「誠品的」な美意識の体現を求めた。部下たちと徹底的に議論し、妥協を許さず、あらゆる決定に明確な理由を求め、曖昧さを排除したと言われている。

だからこそ、誠品というブランドは、異なる国、異なる土地でも、共通の誠品カラーを打ち出せたのかもしれない。

その日本進出は喜ばしいことだが、日本と海外とでは書籍マーケットの構造はかなり違う。日本では、アマゾンをはじめとした電子書籍の影響力も台湾や中国、香港より強い。出版取次などの海外にない流通構造や商習慣にも苦労するだろう。

日本橋店でともに運営にあたる有隣堂とのスムーズな協力体制の構築にも一定の時間を要するかもしれない。新しい実体書店の生き残りモデルとして、誠品書店の日本進出の成否はどうなるのか、呉清友氏もその結果を見届けたかったに違いない。