[画像] 田中将大は「観る力」がケタ違い。「勝てる」礎は中学時に築き上げた

あの時もキミはすごかった〜ヤンキース・田中将大編

 いまや押しも押されもせぬニューヨーク・ヤンキースのエース格となった田中将大は、ワールドシリーズ制覇に向けて、連日激闘を繰り広げている。その田中について、アーロン・ブーン監督からのコメントを何度か見たが、「マサがいいピッチングをしてくれた」とか、「マサはいつでも試合を託せる」など、「マサ」が今の田中の呼び名のようだ。

 だが、私にとって「マサ」も「マー君」も「タナカ」もしっくりこない。私のなかでの田中将大は、いつも「マサヒロ」だ。それは田中がチームメイトや指導者からそう呼ばれていた頃に、田中と初めて出会ったからだ。


宝塚ボーイズから駒大苫小牧に進んだ田中将大は甲子園でも活躍した

 中学生になった田中が、兵庫県にある硬式クラブチーム・宝塚ボーイズに入団してきたのは2001年春だった。当時、宝塚ボーイズの監督である奥村幸治の取材をしており、毎日のように練習グラウンドに通っていた。

 奥村は高校卒業後、プロを目指しながらオリックス、阪神、西武で打撃投手を務め、オリックスでは1994年にシーズン210安打を放ったイチローの打撃投手として、たびたびマスコミにも取り上げられた人物だ。

 その奥村が少年野球チームをつくり、熱心な指導を行なっていると知り、取材を重ねていたところに田中が入団してきた。

 当初はとくに気にとめていなかったが、ある日の練習を眺めていると、奥村がこう言ってきた。

「これからが楽しみです。ひょっとしたら……があるかもしれません」

 その視線の先にいたのが、まもなく中学2年になる田中だった。

 小学生の時の田中は、軟式野球チーム・昆陽里(こやのさと)タイガースに所属し、ずっと捕手。6年時には投手・坂本勇人(巨人)とバッテリーを組んでいた。

 そのチームから創設3年目の宝塚ボーイズに進んだのは、田中だけだった。練習を見学し、グラウンドの張り詰めた空気や指導者、選手たちが発する声に惹かれたと、のちに決断理由を語っていた。

 そんな田中にピッチャー挑戦の機会がめぐってきたのは中学1年の秋。「肩の強さと肩周りの筋肉の柔らかさが投手向き」という奥村の判断だった。

 いざマウンドから投げると、ストレートは力強く、大型投手のわりにコントロールも安定していた。2年から主戦投手となった一方で、投げない日は捕手として試合に出場した。

 田中が宝塚ボーイズに在籍した3年間、主要大会を中心にかなりの試合を見た。なかでも、田中がのちに「あの試合で僕は変わりました」と振り返った2年夏の県大会決勝も観戦。1点を追う最終回、二死満塁のチャンスで打席に入った田中は、中途半端なスイングでライトフライに倒れゲームセット。先輩たちの夏を終わらせてしまった悔いは、田中のなかに深く残った。

 当時の田中は、大型捕手としても、最速136キロを投げる投手としても魅力が詰まっていた。ただ、今の姿を連想させるほどではなく、高校進学についても各校が争奪戦を繰り広げるということはなかった。

 それでも中学での3年間が、”野球人・田中将大”の基礎を築いたのは間違いない。楽天に入団してしばらくしてから、田中に取材する機会があったのだが、その時「中学時代がなかったら、今の僕はありません」とはっきり語っていた。

 着実な成長を遂げていった中学時代の田中について、忘れられない思い出がある。田中が中学3年に上がる春のことだ。ある雑誌の特集で田中を取材した時だ。テーマはカーブについてだったが、おそらく田中にとっては人生初の取材だった。

 取材当日、練習グラウンド脇にあるブルペンで田中のカーブをしっかり見たあと、話を聞いた。緊張しているだろうと思い、雑談のような感じで気楽に話に入ったところ、田中の発する圧倒的な雰囲気に気圧(けお)された。

 これまで何人か中学生を取材したことがあるが、普通はテンションが上がるか、恥ずかしがるか……のどちらかである。しかし田中は、ニコリともせず、無駄なことは一切言わず、それでいて伝えるべきことは自分の言葉でしっかり伝える。

 取材の最後に「ピッチングで大事にしていることは何か?」と聞くと、田中は表情を一段と引き締め、「気持ちです」と即答した。投手・田中の肝と言える一番の武器を、この時すでに身につけていた。相手にも己にも負けない気持ちの強さ。この気持ちや意識というのは、中学生を指導する奥村が最もこだわり、伝えてきたものだ。

「中学生がプロの技術を真似ることはできないけど、中学生がプロの意識を持つことはできる!」

 これは奥村の口癖のひとつだが、田中も何度もこの言葉を聞き、冷静な思考、熱く強いハートを身につけていった。これまで田中を取材したなかで、何度か中学時代の話になることがあった。そのいくつかを紹介したい。

「(奥村監督からは)調子がいい時は誰でも頑張れる。悪い時にこそ、選手の本当の真価が問われると言われていました。この教えは、ずっと僕のなかにあります。状態が悪いから『しょうがない』とは一切思わない。ブルペンで真っすぐが走らなくても、変化球でストライクが取れれば大丈夫とか、プラスに目を向けてそこから抑えられるように考えを広げる。そしていざ投げるとなった時には、『絶対に打たれない』と自分のボールに自信を持って投げていました」

「技術だけでなく、意識の持ち方や状況判断といったところを繰り返し教えられました。中学時代の練習メニューで一番頭に残っているのは、ランナーを置いて行なう状況判断ノックです。走者の動き、プレーの流れをイメージしながら、ボールに直接関わっていない選手も打球に集中して動く。最初は要求が高くて動き方もわからなかったんですけど、常に視野を広く持てと言われて、徐々に理解できるようになり、力もついていったと思います」

「中学時代に、ピッチャーとしてもバッターを見る力がついたのが大きかった。単に投げるだけでなく、バッターが何を狙っているのかを『動きだけでなく、雰囲気で感じろ』とよく言われました。レベルが上がるほど、投げる以外の部分が大事になってくる。そこは常に思いながらやっていました」

 田中について奥村に話を聞くと、最たる能力として”観る力”の高さを挙げた。

「試合状況、相手打者、味方の野手……常にそのあたりを頭に入れて投げられる。力があるのはもちろんですけど、”観る力”がケタ違い。だから、勝てるんだと思います」

 ボールだけで言えば、当時の田中レベルの中学生を探すのはそこまで難しいものではないだろう。しかし、気持ちや意識といった内面を加えると、田中レベルの投手を探すのは途端に難しくなる。

 投球スタイルもフォームも、マイナーチェンジを重ねながら結果を残してきた。駒大苫小牧高校、楽天、ヤンキースとチームは変わっても、田中の「勝てる投手」としての評価は変わらない。技術、体力はもちろんだが、中学時代から成長を目の当たりにしてきた者とすれば、その心と頭のなかにこそ、田中将大をつくり上げた最大のファクターがあると実感する。その礎を築いたのは、まぎれもなく中学時代の3年間だった。