科学者にして財界に大きな影響力を持つ「理研コンツェルン」の総帥、加えて人格、識見、誰もが認める子爵・大河内正敏は、やがて田中角栄の立身に深く関わることになる。

 田中は理研関連のこの仕事を引き受けることで、急速に事業を伸ばしていった。田中には生涯「先生」と呼ぶ人物が三人いたが、この大河内もまさにその一人、言うなら「事業の師」と言ってよかったのだった。

 田中がその大河内邸での書生にという紹介を受け、青雲の志を持って上京したのは昭和9(1934)年3月、時に16歳だった。新潟の知人の紹介を受けた井上工業という土建会社の東京支社を一泊の仮の宿とし、トランク一つ、大河内邸を訪れたのは3月29日だった。東京はその日、朝から大雪だった。

 田中は、日本橋の室町3丁目からバスに乗った。行き先は、当時の下谷区谷中清水1番地の大河内邸である。ところが、花の東京は、“お上りさん”の田中にとっては、早くも試練の連続だった。

 まず、「言葉」が難問だった。バスに乗ったはいいが、車掌の東京弁は早くて何を言っているのかサッパリ分からなかった。ために、「この辺だろう」と見当をつけて降りたのは上野の不忍の池近くで、やむなく谷中清水まで雪の中を歩いていったのだった。

 ようやくたどりついた大河内邸は大門が開いており、緊張感丸出しの田中は勇気を奮い起こして邸内に入った。出てきたのは、お手伝いさんらしい中年の女性である。田中が大河内邸を訪ねた経緯をトツトツと伝えると、女性はピシリと言ったのだった。
「殿様はお屋敷では、人にお会いすることは致しません。殿様は午前10時までに、本郷上富士前町の理化学研究所にお出掛けになります。どうぞ、そちらのほうへお越しください」

 田中が来ることが伝わっていなかったことでの“手違い”だったのだが、女性はそれだけ伝えると、玄関の戸をさっさと閉めてしまったのである。

 田中はいきなり途方に暮れた。「本郷ナントカ…」とは聞いたが、東京弁の早口をすべて聞き取るのは無理であった。田中は、雪の中をトボトボと歩いた。帰る先は、東京でただ1カ所、紹介された日本橋の井上工業だけであった。

 大河内邸に書生として住み込み、学校にも通わせてもらえるという田中の夢は、ここで空しく散った。しかし、田中は長じてもそうだったように、頭の切り替えが早いのが常である。田中は井上工業の小僧として働くことを申し出、夜は神田猿楽町の私立中央工学校で土木、建築、製図などを学んだ。とくに、数学は得意中の得意で、教師の代講までやってみせたものだった。

 その後、井上工業の現場監督に叱られたのをキッカケに、気の短い田中は退職、以後は職を転々、一方で相変わらず神田三崎町の研数学館や英語学校などに通い、勉強を怠ることはなかったのだった。

 ところが、こうした中で、田中は奇遇を得た。なんと、その後に勤めた中村建築事務所という会社が、あの大河内が所長を務める理化学研究所の仕事を請け負っていたのだ。大河内邸での門前払いから2年半、ひょんなことから、改めて大河内との出会いを持つことになるのである。

★「日本列島改造論」へのヒント

 時に、理研コンツェルンの本社は本郷上富士前から、日比谷交差点の角の美松ビルというところに引っ越していた。同コンツェルンは、戦前の軍需に引っ張られ、ピーク時63社、工場数は121に達していたのだった。田中は出入りしていたこのビルのエレベーターで、偶然、大河内と乗り合わせたということだった。

 その1週間後、田中は再び大河内と乗り合わせたのだが、このエレベーター内で初めて口を聞いた。大河内は6階に総帥としての部屋をもっており、その部屋に田中を招いてくれた。