「銃」のあり方について、東京大学大学院教授の小原雅博氏と学生が論議します(写真:Prathaan/iStock)

テロ、難民、EU離脱、核・ミサイル、北朝鮮……世界ではあらゆる問題が起きているが、問題の本質についてわかったつもりになって聞き流すことも多いのではないだろうか。国際政治とはいったい何か――。外交官・外務官僚としてさまざまな外交の実務に携わってきた小原雅博氏(東京大学大学院教授)の新著『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』を一部抜粋し再構成のうえお届けします。

僕は、東京大学で国際政治や日本外交について学生たちと討論するゼミを開講している。国際問題をさまざまな視点から検討し、学生たちに質問し、考えさせる。毎回文字どおりのゼロから、国際政治について考えていく。

本稿は、僕のゼミを、広く社会に向けて開放しようとする試みである。ここに登場するメンバーを紹介しよう。ここでは議論の本質を端的に示すため、関心の違いにあわせて4人の学生像を設定し、それぞれの関心にちなんだ地名を仮名とした。

「銃」の普遍的な価値とは

霞が関さん:外務省を志望。理想を持ちつつも現実を直視することをモットーとする
厚木くん:防衛省を志望。軍事力は何にも勝ると考え、世界の軍事事情に異常に詳しい
青山さん:国連職員を志望。人権や自由の価値を重視し、真の世界平和を強く願う
兜くん:グローバル企業を志望。お金こそが人を動かし、世界を動かす力だと考える(※本稿では登場しない)

小原:人が集まれば政治が生まれ、国家が集まれば国際政治が生まれる。そして、人と人の関係、国家と国家の関係が、何らかの秩序を生み出す。「秩序」について、「力/パワー」の観点から考えてみたい。

秩序というからには、そこにはある普遍的な「価値」が存在している。「民主主義」や「自由」などはその代表的なものだ。社会の秩序とは、そうした「価値」を維持しようとする人間の行動様式によって規定される。したがって、国際秩序を考えるときには、それが「力の体系」であるとともに「価値の体系」でもある、という視点を持つことが必要になる。

そのことを理解してもらうために、最初に取り上げたいのが「銃」の問題だ。銃は「力」であるがゆえに、銃にどんな「価値」を見出すかによって社会秩序は異なってくる。

小原:僕らが住んでいる日本という社会は、治安のよさで世界的に知られている。その背景には、犯罪の原因となる「貧富の格差」や「人種・民族間の対立」といった問題がさほど深刻ではないこと、あるいは警察の能力や国民の遵法意識が高いといった点も指摘できるだろう。そして何よりも、銃の所持が禁止されていることが大きな要因であることは間違いない。

アメリカは、皆も知っているとおり国民の銃所持が基本的に認められていて、民間人による銃犯罪が絶えない国だ。なかでも、学校での銃乱射事件、いわゆる「スクール・シューティング」は、日本ではまず考えられないことだが、アメリカではたびたび起こっている。教室に突然、銃を持った男が押し入ってきてあたりかまわず銃を乱射するなんて、想像できるだろうか。

青山:日本では想像できませんが、ここがアメリカなら十分想像できます。というのも、私は以前、アメリカの大学に留学していたことがあって、ある日突然「大学のキャンパスに銃を持った卒業生がうろついている」という情報が流れてきて、動けなくなるほどの衝撃に襲われたことがあります。そのときの恐怖感は表現できないほどに大きくて、日本に帰ってきてからも、銃撃される場面をつい想像してしまって眠れない日々が続きました。

小原:それは……大変な経験をしたね。話してくれてありがとう。今の話に、ほかの皆も、アメリカの銃社会の恐ろしさを感じたんじゃないかな。青山さんには、そのときの記憶をよみがえらせてしまうようで申し訳ないのだけれど、銃規制について議論するうえではどうしても見ておいてほしい1枚の写真がある。

銃が絡む事件で毎年1万人以上が命を落とす

これは、アメリカのある小学校で起きた銃乱射事件の現場をとらえた写真だ。子どもたちが警察に連れられ、泣きながら避難しているのがわかるだろうか。不安におののく子どもたちと、その安全を守ろうとする警察や先生たち。この光景は、銃犯罪が絶えないアメリカ社会の一面をとてもよく表している。


アメリカでは、銃が絡む事件で毎年1万人以上が命を落としている。2018年には、ほぼ毎日のペースで銃がらみの事件が起きた。

ある調査によれば、アメリカでは銃による死亡の可能性が、ほかの主要な死因よりも高いという。

また、ニューヨークとロンドンの治安を比較したデータでは、強盗に襲われる可能性は両者で同じ程度だけれど、襲われた場合に命を落とす可能性はニューヨークのほうが54倍も高いという。これが、アメリカという社会の現実なんだ。

小原:それでも、アメリカは銃社会であることをやめようとしない。アメリカの最高法規である合衆国憲法には、武器の所有について次のような規定がある。

規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利はこれを侵してはならない(合衆国憲法修正第2条)

小原:ちなみに、世界を見渡してみて、銃の所有を国民の固有の権利であると考える国は非常に珍しいと言える。アメリカ以外では、メキシコとグアテマラの2カ国のみだ。

この規定については、「民兵」や「武器」の解釈を含めて論争が続いたけれど、最高裁で争点となった1つの議論は、前半部分と後半部分のどちらを強調するか、というものだ。

前半部分を強調すれば、「武器を保有し携帯する権利」とは、民兵および州兵制度に属する一員としての集団的な権利である、となり、後半部分を強調すれば、修正第1条の表現の自由などと同様に、人民(the people)の権利であるという主張となる。前者が「集団的権利説」、後者が「個人的権利説」と言われる。

2008年、アメリカ最高裁は「個人的権利説」を採用し、ワシントンDCの拳銃規制が憲法修正第2条に違反するとした違憲判決を下した。

アメリカという国では、自分の身は自分で守る、そして、そのために銃を所有する権利は市民権の欠かせない一部だという社会通念が、建国以来根強く存在してきた。もちろん、都市部と地方とでは銃規制に対する考え方はずいぶんと違っている。

けれど、これだけ銃がらみの事件が頻発していてもなおアメリカが銃社会をやめようとしない背景には、アメリカ最大のロビー団体と言われる「全米ライフル協会(NRA)」の強固な反対とその政治的働きかけがあると指摘されてきたものの、やはり憲法の規定をめぐる議論に見られる自衛権重視の価値観も存在しているようだ。

それは、銃規制が徹底している日本の価値観とは大いに異なるものだ。日本では、社会から銃を一掃し、警察だけが銃を所持することで、安全を確保しようとする。両国では、銃という「力」に見出す「価値」に大きな違いがあり、そのことが国内秩序の違いも生んでいるのだ。そこで、皆に問いたい。アメリカではなぜ「武器所有の権利」が認められてきたのだろうか。

武器所有の権利が認められた理由

霞が関:アメリカ人が銃所有の権利を主張する背景には、本来なら自分たちを守ってくれるはずの警察に対する不信感があるのではないでしょうか。

私もアメリカに留学していたことがありますが、そのときいちばん強く感じたことは、市民と警官の距離が遠いということです。例えば、白人警官による黒人射殺はいまでも珍しくありません。この不信感が、日本と違って「自分の身は自分で守る」という考え方につながっているのだと考えます。

小原:なるほど。国民が「自己保存」のために暴力を行使する権利(すなわち自然権)を国家に委ねることで、リヴァイアサンである国家だけが暴力の行使を認められ、対内的には警察が、対外的には軍隊が、それぞれ国民の安全を守るというのが近代主権国家のあり方だった。

ところが霞が関さんの意見に従うなら、アメリカでは警察による力の行使に頼ることができず、そのため市民は銃の所持を選択し、結果、さまざまな事件が引き起こされて市民の安全という社会秩序が失われることになると言える。しかし、それにしてもなぜアメリカの警察は、きちんとその責務を果たすことができないのだろうか。

厚木:僕は、物理的な距離の問題も大きいと思います。日本ではそこかしこに交番があって、必要になればすぐ近くの交番に駆け込むことができます。けれど、アメリカは何しろ広大な大陸国家なので、1つの警察署が管轄する地域はとてつもなく広い。

したがって交番制度もなく、地域によっては、事件が起きて警察に通報しても、警察官が到着するまでにかなり時間がかかってしまう場合もあると聞きます。そうなれば、警察に頼るのではなく、自分たちの安全は自分たちで守ろうと考えるのが自然ではないでしょうか。

銃社会につながったアメリカ建国の背景

小原:確かに、僕もアメリカに計6年以上住んだことがあるけれど、車で移動していると、隣の家まで何キロも離れているような大穀倉地帯に出くわすことがあったな。

僕からも1つ、付け加えておきたい。それは、アメリカの建国に見て取れる歴史的な背景だ。アメリカという国は、ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸にやってきた人々が、銃を手にインディアンと戦いながら西へ西へと開拓地を広げていったことで形成された国だよね。そうした人たちからすれば、「開拓者魂」とでもいうべきDNAを体現する銃へのこだわりには特別な歴史的・精神的意味合いがあると考えられるんだ。

そして、アメリカ独立のために戦った建国者たちは、啓蒙思想に溢れた人たちだった。もしも国家が権力を濫用した場合、権力に抵抗し自由を守るための武器を所有するのは当然だというのが、建国以来アメリカ社会で受け継がれてきた価値なのだろう。

厚木:ロックの言う「抵抗権」の思想ですね。

小原:そのとおり。しかし、そうした事情をすべて考慮したとしても、ホッブズの言う「自然権」を国家に委ねないで、市民が武装するというアメリカ社会の秩序は、時代遅れでおかしいのではと僕は思っている。そこで、次の表を見てほしい。


これは、銃所有率の高い国のリストだ。アメリカはもちろん1位だが、ここで注目したいのは7位のスイスだ。スイスもアメリカと同様に銃社会と言われ、このデータが示すとおり多くの民間人が家庭で銃を所有している。

しかし、スイスで銃が使われて死者が出たという事件は、ほとんど聞かないよね?とくに、アメリカで頻発するような銃乱射事件(※)について言えば、2001年に1回起きたきり、その後は起こっていない。

なぜ、同じ銃社会でこれほどの違いが生まれるのだろう。

(※)「銃乱射」とは、「1カ所または近接する2カ所以上の場所における1つの事件で、銃器によって4人またはそれ以上の犠牲者が殺害されることで、死亡した加害者も含む」(2015年のアメリカ議会調査局の定義)

青山:スイス人の留学生から聞いたのは、小さい頃から銃の使い方を教わる機会があるということです。銃にはどんな威力があって、どんなときに使うべきものなのか。日本の小学校で横断歩道の渡り方を教わりますが、それと同じで、幼少期からルールとしてたたき込まれていれば、大人になってからも悪用しなくなるのだと思います。

文化に根づいている

小原:教育の役割についての指摘だね。実際スイスでは、1600年代から現在に至るまで、「クナーベンシーセン(少年による射撃)」という大会が毎年開催されている。この絵はその広告だ。


初めは少年だけだったんだけど、その後は少女も参加できるようになったみたいだね。軍用ライフルで射撃の腕を競い合い、優勝者は「射撃の王様」、あるいは「射撃の女王」と呼ばれるんだとか。つまり、スイスでは子どもの頃から銃に親しむ文化があるということだね。

それにしてもなぜ、スイスにはこうした文化が根づいているのだろう。皆も知っているように、スイスは永世中立国だ。つまり、スイスはどんな国とも戦争しないし、またどんな国同士の戦争にも首を突っ込まないということを、国際社会に対して宣言している。

したがって、他国と同盟を組んだりNATO(北大西洋条約機構)の一員として集団的自衛権を行使したりすることもできないから、他国に侵略された場合には、基本的には自力でそれを阻止するしかないということになる。

それゆえ、スイス人には「祖国を守る」という意識がほかの国に比べて一段と強く備わっていると言われている。当然、祖国を守るためには武器が必要であり、彼らにとって銃の所有は「国民としての義務」を果たすためということになる。

イギリスのBBCはかつて、「アメリカ人は自分の護身のために銃を持つが、スイス人は国を守ろうという意識が強いから銃を持つ」と報じたことがある。これは、両国の銃に対する価値観、そしてそれによって生まれる社会秩序の違いを的確に表現した言葉だと僕は思う(※)。

(※)スイスの銃規制法はアメリカより厳しく、販売のための免許の取得や、所有可能な銃の種類については、厳格な条件が付けられている。銃の携行許可を取ることも難しい。また、民間で所有される銃の数は近年大きく減少してきた。そうした事情も銃犯罪の少なさにつながっていると考えられる。

小原:この2つの国の比較からわかるのは、同じ銃という「力」を持ちながら、その「力」によってどんな「秩序」を実現するのかという「価値」観の違いが存在しているということだ。自分の安全か、国家の安全か。その背後には、国家と個人との関係、社会に対する認識などがある。

これを国際社会に置き換えてみるとどうだろうか。国家が有する軍事力は本来、「国家の安全を守るため」であって、国際社会の安全を守るためではないというのが基本的な考え方だ。つまり、「自衛権」というアメリカの銃に対する考え方と同じということになる。

厚木:日本国憲法第9条も、自衛権は否定していないというのが日本政府の立場です。

スイス的「価値」観に立って考える

小原:でも、銃は自分を守るためではなく、自らの属するコミュニティ(国家)を守るためであるというスイス的「価値」観に立って考えたら、軍事力は「国際社会の平和と安全のためのもの」ということになるよね。みんなの平和、すなわち「世界平和」を守るという目的を誰もが共有して、そのために軍事力を持つ、あるいは軍事力を使うという状態になれば、国際社会の秩序はずいぶんと違ったものになるんじゃないかな。

霞が関:残念ながら、スイスのアナロジーは国際社会には当てはまらないし、将来そうなるという期待もできないと思います。スイス人が国家に対して抱いているような忠誠心を、利害がてんでバラバラの国家が国際社会に対して抱くことはできないだろうからです。

万が一の可能性があるとすれば、すべての国家の存続を揺るがすような地球規模の重大な脅威が迫っているような場合だけでしょう。けれど、そんな明確で巨大な「共通の敵」はいまだ現れていないですよね。したがって、すべての国家が世界平和のために軍事力を持ち、それを提供するということは、現時点では考えにくいと思います。

小原:ここでもやはり、地球上のすべての国家が認識を同じくする「共通の脅威」がなければならないという問題に突き当たるようだね。

ただ、国際社会のための軍隊がまったく考えられなかったわけではないし、それに近い軍隊も現実に存在してきた。1つは、国連の集団安全保障だ。国連加盟国が「国際の平和及び安全の維持に必要な兵力」を安保理に利用させることを約束する(国連憲章第43条)という規定がそうした軍隊を意図したことを物語っている。

ただ残念ながら、そのための協定が結ばれていないから、国連の集団安全保障は機能してこなかったけれど、それを補う形での「平和維持活動(PKO)」は、世界各地で実績を積み上げてきた。

「ブルーヘルメット」と呼ばれる平和維持軍は、国際社会の平和のための軍隊だと言っていいだろう。日本も自衛隊を世界各地に派遣してPKO活動に積極的に参加してきた。これは、自国の軍隊を自衛のためではなく、国際社会の平和のために使っていると言えるのではないかな。

青山:そうした努力は大切だと私も思います。1992年に、国連事務総長だったブトロス・ガリが発表した「平和への課題」は本当にすばらしかったです。その後も、国連を中心にして、紛争の各段階で加盟国がいかに軍事的協力をするかが議論されてきていますね。


小原:そのとおり。加えて言うなら、自衛権の一種としての「集団的自衛権」についても議論が必要だね。これは、自国への直接の攻撃ではないけれど、同盟国や友好国への攻撃に対して自国の軍事力を用いて反撃する権利だ。

この権利のもと、ある特定の「価値」を共有する諸国家が「共通の脅威」に対して軍事的に協力するということは可能だと言える。現に、冷戦中の西側陣営は「自由」や「民主主義」という価値を共有して、そうした価値に対する「共通の脅威」であったソ連を中心とする東側陣営と軍事的に対峙していた。現在も存在するNATOという多国間同盟機構がそれにあたる。

また、北朝鮮の開発する核兵器とミサイルが国際社会の脅威となっているけれど、アメリカは同盟諸国に核の傘を提供し、韓国や日本に自国の軍隊を駐留させている。こうした事例も考えていかなくてはいけない。

ここでの学びをまとめてみる

○なぜアメリカから銃がなくならないのか?

銃を持つことにより自分の身を守るというのがアメリカの秩序。そこには、警察がカバーしきれない広大な国土という物理的背景と、建国以来の開拓者としての精神的背景がある。

○なぜスイスでは銃乱射事件が起きないのか?

スイスで、銃は「祖国を守る」ものという意識が社会の秩序となって根づいている。その背景には、永世中立という国のあり方や幼少期からの教育がある。

○銃や軍事力は何のためにあるか?

銃や軍事力は自衛のためか、社会のためかで国際秩序も変わる。軍事力を国際社会の平和と安全のために使うことも可能。