試練の時、あるいは、真の女王への通過儀礼――。

 そのような言葉が、 “テニスの聖地”と謳われるオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブに立ち込める。

 感極まった表情を両手で覆う勝者と、やや長く伸びた影を引きずるように、祝福の空間に背を向け出口へ向かう敗者。残酷なコントラストに彩られたセンターコートを、世界2位の大坂なおみは、うつむいたまま後にする。


ウインブルドン1回戦でまさかの敗退となった大坂なおみ

 ウインブルドン1回戦。大坂なおみは、約10日前の前哨戦での対戦に引き続き、試合巧者のユリア・プチンツェワ(カザフスタン)に6−7、2−6で敗れた。

 早々にブレークを奪う幸先のいいスタートに、暗転の兆しが差し込んだのは、3−2とリードした第6ゲーム。先の対戦でも手を焼いたプチンツェワのスライスを、大坂はバックハンドで強引に打ち返すも、一度はボールはラインを超え、一度はネットを激しく叩いた。

 その直後のゲームでは、ブレークのチャンスを再びバックのミスで逃す。第1セットのタイブレークでも、リードするも相手の絶妙なドロップショットを機に、手繰り寄せた主導権を握りしめる前に取り落とした。

 大坂の心と足もとを揺さぶったのは、小柄でパワーでは劣るプチンツェワの、迷いなき策でもある。

「あのすさまじいサーブと攻撃的なメンタリティを思えば、ナオミは将来、芝でもっとも危険な選手になる」

 大坂にそのような敬意と表裏の警戒心を抱くプチンツェワは、「あらゆるショットを織り交ぜて、ナオミに心地よくプレーさせいないようにした」と言う。

 その業師が掴んだ第2セットのブレークポイントは、試合の分水嶺という意味でも象徴的だった。

 大坂の高速サーブをバックのスライスで打ち返したプチンツェワのリターンは、ネット上部の白帯を叩いて小さく跳ね上がると、再びネットをかすめて、ゆっくりと大坂コートへと落ちる――。

 プチンツェワはのちに、このリターンは「意図的にドロップショットにしたのではなく、短くスライスで返そうと思っていた」のだと笑顔で打ち明けた。

 大坂にとっては、あまりに不運なネットの気まぐれ。だがそれは、相手が貫いた意思の帰結という意味では、必然であり、大坂を敗戦の道へと突き落とす決定打となった。

「考えすぎてしまう性格なの」というのは、今大会を迎えた時、大坂が口にした言葉である。

 自分の周りで何が起きているのか? 周囲が自分をどう見るのか? そのような周囲の動きに対し、自分はどう応えていくべきなのか……?

 それら「鋭敏な感受性」と「完璧主義」な性向は、彼女に2度のグランドスラム優勝と、世界1位の座をもたらした主成分だ。だが、今はひるがえって、彼女の心を蝕(むしば)む腫瘍となる。そのことを顕著に物語るのが、試合後の会見での以下のようなやりとりだ。

「今の女子テニスでは、多くの選手がツアーで優勝している。そのような現状を踏まえた時、初戦敗退も致し方ないことであり、失意も薄まるとは考えられないか?」

 その質問を受けた時、腫れた瞼(まぶた)に涙の跡をうかがわせる大坂は、怪訝そうな表情を浮かべて、「初戦敗退が仕方ないことと思えるか、という意味?」と問い返すと、こう続けた。

「それはない。むしろ、敗戦の痛みが増す。だって、より多くの人が、今まさにあなたが言ったようなことを、これからも言うようになるだろうから……」

 質問者が口にしたように、今季の女子ツアーではここまで32の大会が開催され、24人もの選手がタイトルを手にしてきた。「女王不在」が女子テニス界を語る常套句となってすでに長く、新たなスターや絶対的な世界1位を求める機運は年々、強まっている。

 大坂は、皆が求めるその存在に自分がならなくては……と思いつめている感が強い。3月のBNPパリバ・マスターズでは、サインや写真を求める子どもたちの姿を目にして、「私がかつてトップ選手たちに憧れたように、今度は私がこの子たちのロールモデル(お手本)にならなくては」と決意したと言った。

 全仏オープンが近づくと、「どうしても第1シードとしてグランドスラムを迎えたい」と公言し、なおかつ、「四大大会すべてを制する『キャリアグランドスラム』を成し遂げたい。できればそれを、今年1年間で達成したい」とも口にした。

 性急に自身に求める女王像が、彼女の心と身体の歯車に歪みを生んでいるように見えてならない。そのような「考え過ぎ」で「完璧主義」な性分が、今回、会見を途中離席するというロールモデルにそぐわぬ行為へと、彼女を追い詰めたのは皮肉だ。

 ここから彼女は、どこへ向かうだろうか?

 復調へのカギを問われた時、大坂は「わからない。その質問への回答を、私はまだ見つけられてない」と、声を絞り出すのに精一杯だった。

 ただ、大坂が混乱の最中にいるその間にも、女子テニス界は激しい動きを見せている。

 彼女が敗れた数時間後には、今大会最年少のコリ・ガウフという15歳の米国の少女が、憧れ続けた5度のウインブルドン女王のビーナス・ウィリアムズ(アメリカ)を破るという、新たなシンデレラストーリーが生まれた。大坂の敗戦時には色めき立っていた主にアメリカ人の記者たちも、今となっては新たなスターを追うことに必死だ。そして流動的なこの現状は、息づまる大坂の助けにもなるだろう。

 昨年の全米オープンを迎える前、大坂は「テニスが楽しめない」と感じる苦境から、なぜ自分はテニスをやっているのかという原点に立ち返ることで、「心の立ち位置を変えること」に成功し、グランドスラムタイトルを手にした。

 果たして彼女は、この試練の時を超え、女王への通過儀礼を無事終えることができるだろうか?

 おそらくは今回も、復調へのカギは、彼女の心の中にある。