群馬県内を走るJR信越本線のSL試運転は閑散区間ならではの風景だ。背後は妙義山(筆者撮影)

JR時刻表やJTB時刻表の全国の路線図を見ると、JRの路線は、黒い線の「幹線」と青い色の「地方交通線」に区分されている。これは、1980年に制定された「国鉄再建法」(通称)で決められたもので、これにより地方交通線は割増運賃が導入されることになった。

この区分けに関しては、1970年代後半の実績によるいくつかの基準により規定された。しかし、国鉄がJRになってもそのまま引き継がれ、事情が大きく変化したり、同じ路線においても区間により相当の落差が生じたりしても、是正されることなく現在に至っている。よって、今や幹線といっても「名前負け」してしまっているような線区がいくつも存在する状況である。

とはいえ、かつての栄光をしのびながら、のんびり旅をするのも悪くない。今回はそうした地方交通線並みの過疎路線というべき「残念な幹線」を独断でリストアップしてみた。

新幹線開業で一変

1)信越本線の高崎―横川間(群馬県)

北陸新幹線(開業当初は長野行新幹線)ができるまでは、首都圏と長野や北陸とを結ぶ重要な幹線ルートとして特急「あさま」「白山」など多数の優等列車が行き交っていた。


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しかし、優等列車がすべて新幹線に移行し、横川―軽井沢間の碓氷峠を越える区間が廃止になると、高崎―横川間は盲腸線と化し、普通電車が走るだけのローカルな路線に転落してしまった。

閑散区間を利用したSL列車が走ることはあるものの、立派な複線の施設は持て余し気味である。盛者必衰の言葉が当てはまる路線で、時代の流れとはいえ淋しくなる。

2)美祢線(山口県)

かつては石灰石輸送が盛んで、1日に30往復以上の貨物列車が走った時期もあった。それゆえ「幹線」に分類されていた。しかし、宇部興産が専用道路を造り、トラック輸送に切り替えたこともあって、貨物列車は全廃となった。

旅客列車も、一時期は山陰本線と九州を直通する急行列車が美祢線を経由し、グリーン車も連結されていて、「幹線」の名に恥じないものであった。ところが、現在では、すべて普通列車で、1両のみ(時に2両)のディーゼルカーが、昼間は2〜3時間に1本走るのみの閑散とした路線になってしまった。

近くに特急列車や「SLやまぐち号」が走り、美祢線よりはにぎわっている山口線があるが、こちらは地方交通線だ。比較すればするほど美祢線の凋落ぶりが目立ち、残念と言わざるをえない。

3)宇部線(山口県)

美祢線から山陽本線経由で直通する貨物列車が宇部港まで走り、美祢線同様、1970年代には、1日に30往復以上の貨物列車が発着することもあった。貨物輸送が盛況だったので「幹線」の仲間入りをしていたのは、美祢線と同じである。


宇部線の電車(宇部新川付近にて、筆者撮影)

中間駅の宇部新川駅は、一時、宇部駅を名乗っていたように、宇部市の中心に位置する。しかし、道路状況がよいこともあって、バスやマイカーが主流で、電化区間にもかかわらず、昼間は閑散とした状態で、クモハ123による単行運転も見られる。

居能駅で接続する小野田線(こちらは地方交通線)とともにBRT(バス高速輸送システム)化の構想も出ていて、地元では利用する人が多くない残念な路線である。

「偉大なるローカル線」

4)山陰本線の益田―幡生間(島根県・山口県)

山陰本線は京都から下関の手前の幡生(はたぶ)まで延々673.8kmもの日本一の長大な路線である。山陽本線に比べるとのどかで地方色豊かなことから「偉大なるローカル線」と揶揄されることもある。それでも本線の名に恥じることなく、京都駅から益田駅までは、何らかの形で特急列車が走っている。

しかし、益田―幡生間は、かつては特急列車が走った歴史はあるものの、現状では観光列車をのぞき、普通列車が走るのみだ。とくに益田駅と長門市駅間が悲惨な状況で、人気の観光地萩を経由するにもかかわらず、4時間ほど列車が走らない時間帯もある。

長門市駅でつながっている美祢線と相通じるものがあり、本線らしく長いホームに小ぶりなディーゼルカーが1〜2両で停車するのを目にするとわびしくなってくる。豪華列車「瑞風」が通過するのが、せめてもの救いだろうか。

5)筑肥線の山本―伊万里間(佐賀県)

もともとは博多駅から東唐津、山本を経由して伊万里に至る1つの路線だった。しかし、福岡市営地下鉄と直通運転をすることになったのを契機に、筑肥線は姪浜―唐津の直流電化区間と山本―伊万里間の非電化区間に分断されてしまった。

電化区間の方は、福岡都市圏の路線として幹線にふさわしい状態であるが、取り残された非電化区間は、1両のディーゼルカーが、細々と走るのみで昼間は3時間以上間隔が空くときもある。

かつては、伊万里駅で松浦線とつながり、博多から長崎まで、筑肥線、松浦線、佐世保線、大村線、長崎本線経由の急行「平戸」が走っていたこともある。しかし、松浦線は第3セクターの松浦鉄道となり、伊万里駅では道路をはさんで線路が分断され、直通運転は不可能になり、区間輸送に特化したローカル線に成り下がってしまった。

去年、昼間に伊万里から乗ったときは、途中駅で私以外の乗客はいなくなり、1人だけの貸切列車という淋しさで、とても「幹線」とは呼べない状況だった。

周りの近代化から取り残された

6)関西本線の亀山―加茂間(三重県・京都府)

かつては、名古屋と大阪市内を結ぶ最短距離の路線ということで、東京からの夜行列車「大和」は関西本線を全線走破して、当時の終点湊町(現・JR難波)を目指していた。その後も、「かすが」が準急そして急行になり、関西本線は全盛期だった。

しかし、東海道本線全線電化、近鉄名古屋線の改軌による直通運転、東海道新幹線開業など並走する他線の近代化が進むにつれ、関西本線は地盤沈下し、名阪間の幹線という地位を捨て、地域輸送に特化することとなった。大阪市内―奈良(のちに加茂まで)は電化され、快速電車を主体とした近郊輸送に転換、名古屋―亀山間も電化され、一部区間は南紀へのルートの一部に組み込まれ、何とか幹線の面子は保っている。

結局、亀山―加茂間は非電化単線のまま取り残され、小ぶりの1〜2両編成のディーゼルカーが1時間に1本程度行き交うだけの区間になってしまった。各駅の長いホームが往年の幹線だった栄光の時代をしのばせる。

7)磐越西線(福島県・新潟県)

上越線の清水トンネルが完成するまでは、首都圏と新潟を結ぶ重要ルートであり、そこまでさかのぼらなくても、昭和後期は、上野―会津若松を結ぶ特急「あいづ」、定期と臨時を含め何本もの急行「ばんだい」、喜多方から先の非電化区間においても複数の急行列車が走るなど「幹線」にふさわしい繁栄ぶりだった。


磐越西線を走るSLばんえつ物語。牽引機はC61形(筆者撮影)

しかし、特急や急行はすでに無く、優等列車の伝統を引き継ぐ快速も、特急形が引退してからは近郊型電車になってしまい、かつての面影はない。観光列車「フルーティアふくしま」(郡山―会津若松―喜多方)や「SLばんえつ物語」(新津―会津若松)が走り、注目の路線ではあるけれど、県境付近の運行状況を見ると、数時間列車が発着しない時間帯もあり、実態は地方交通線である。

蒸気機関車の勇姿が見られた

8)函館本線の長万部―小樽間(北海道)

かつては、函館から札幌方面へ向かう優等列車は、函館本線をそのまま走り、倶知安、小樽経由で札幌を目指していた。しかし、平坦地で工業地帯の室蘭本線経由が脚光を浴び、1960年代に入ると、優等列車のメインルートはそちらに移っていった。

通称「山線」は、蒸気機関車C62重連の急行「ニセコ」の雄姿であまりにも有名であるが、今では、臨時の特急をのぞけば、ディーゼルカーによる普通列車が1〜2両編成で走るのみの閑散とした区間である。北海道新幹線が札幌まで延伸したときにはJR北海道から経営分離される並行在来線となる可能性が高いことから、その運命が気がかりである。

9)室蘭本線の沼ノ端―岩見沢間(北海道)

函館と札幌を結ぶ特急「スーパー北斗」は、室蘭本線長万部―沼ノ端間を走り、千歳線を経由して札幌へ向かうため、沼ノ端―岩見沢間は、特急ルートから取り残されている。元々は、道央で産出した石炭を室蘭港まで運搬するために敷設されたのが室蘭本線の起源である。

往時は、頻繁に石炭列車が行き交っていたので、非電化ではあるものの、かなりの区間が複線だった。一部、単線化した区間があるが、現在でも複線区間はかなり残っている。しかし、列車本数が少ないため、私が乗った時は、複線区間ですれ違う列車は皆無だった。列車もキハ40の単行。わびしさ一杯の区間である。

最近廃止されて残念…

10)石勝線夕張支線(北海道)

2019年4月1日付けで廃止となった「夕張線」。末期は閑散としていて、何年か前に乗車したときは、私と同行者と鉄道ファンと思われる人と3人しか乗っていなかった。地元のまともな利用者が皆無では、残念ながら廃止もやむをえないと実感したものである。

しかし、かつては石炭輸送で活況を呈していて、戦前の一時期は複線であり(トンネルの遺構が残っていた)、国鉄再建法でも「幹線」と認定されたのである。

末期の惨状とは別に、近年道内で廃止となった、ふるさと銀河線(旧池北線)、江差線、留萌本線の留萌―増毛とは格の違う路線だっただけに、夕張線にしてみれば地方交通線と同じような扱いを受けたことは無念であったであろう。

実態はローカル線なのに「幹線」に分類される残念な線区は、これにとどまらない。近く第2弾を発表したい。