日本皇室と女王・女系王容認のイギリス王室とはどのような違いがあるのでしょうか(写真:oversnap/iStock)

日本とイギリスでは何が異なるのか?

先月、令和の時代が幕開けました。新天皇の御即位とともに、皇位継承に関する報道なども増え、この問題に注目が集まっています。

現在、わが国では、皇室典範の規定により、男系男子にしか皇位継承を認めていません。男系で、かつ男子の皇位継承者を永続的に多人数、確保することは容易ではないため、男系男子以外にも皇位継承権を広げるかどうかという問題提起や議論がなされています。

なお女系天皇は、母のみが皇統に属する天皇を指します。天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念です。つまり男系男子とは、父が皇統に属し、かつ天皇個人の性別が男性であるということです。

先般もある通信社の世論調査によると、「女系・女性天皇に賛成7割」という結果が出ました。

この問題を考えるうえで、イギリス王室の例がよく引き合いに出されます。「イギリスにはエリザベス女王がおられるのに、なぜ、日本では女性天皇が認められないのか」「チャールズ皇太子が即位すれば女系王になる、なぜ、日本では女系天皇が認められないのか」などの声があります。

イギリス王室と日本皇室とでは、歴史背景、文化・伝統、制度・政治などすべてが異なり、単純比較することはできません。それでも、イギリス王室が歴史的に女王や女系王を認めたという事実や経緯を知ることは、日本皇室との違いを認識するうえで役立ちます。

12世紀、イギリスで初めて女王が出ました。イングランド王ヘンリー1世は男子の継承者がなく、娘のマティルダを王位継承者としたのです。しかし、マティルダは従兄との王位継承戦争に巻き込まれたため、父王の死後、ほんのわずかな期間、在位したにすぎず、追い出されてしまいます。

マティルダはフランス貴族のアンジュー伯と結婚しており、男子がいました。このマティルダの子が力をつけ、イギリスに攻め込み、イギリスの王位継承権を獲得、1154年、イギリス国王ヘンリー2世となります。ヘンリー2世は女系王として、プランタジネット朝を創始します。

こうして、イギリスでは、女王(マティルダ)と女系王(ヘンリー2世)の前例がつくられました。この前例から派生したイギリスの王族子孫らは、女王や女系王を否定することができなくなります。それでも、王位継承の男子優先という原則が守られたため、その後、しばらく女王は出ませんでした。

女系で広がった王位継承権の拡大

14世紀、フランス王シャルル4世が継承者を残さず没すると、イギリス王エドワード3世は自らの母がフランス王家の出身であることを理由にフランス王位を要求します。フランスはこれを認めず対立、百年戦争がはじまります。

エドワード3世はフランスにおいては女系になります。イギリスでは、女系にも王位継承権が認められていたので、エドワード3世はフランス王位継承権を自らの権利であると主張したのです。

イギリスのように、女系王容認という立場であれば、母が外国からやってきた場合、その子には母の出身国の王位継承権があるということになります。母、祖母、祖々母とさかのぼって、母系の出身国のすべてに、王位継承権があるという理屈になります。

そして、ここが非常に大事なところなのですが、逆に、他国に嫁いだイギリス王族女性の子にも、王位継承権があるということです。例えば、スペイン王に嫁いだイギリス王族出身の女性から生まれた子孫はすべて、女系子孫として、イギリス王位継承権があるということになります。つまり、その場合、スペイン王族がイギリス王位継承権を主張することができるわけです。このように、女系継承により、際限なく、王位継承者が広がるのです。

実際、現在のイギリスの王位継承者は約5000人もいます。その中には他国の王も含まれます。

主な継承者とその順位の例として、ノルウェー国王ハーラル5世は第68位、プロイセン王家家長ゲオルク・フリードリヒ・フェルディナントは第170位、スウェーデン国王カール16世グスタフは第192位、デンマーク女王マルグレーテ2世は第221位、ギリシャ王妃アンナ=マリアは第235位、ギリシャ国王コンスタンティノス2世は第422位、オランダ前女王ベアトリクスは第812位、オランダ国王ウィレム=アレクサンダーは第813位となっています。

男系家系の派生範囲は限定的であるけれども、そこに女系が加わるとその範囲は膨大になります。このような継承者の範囲拡大を防ぐため、日本皇室では、皇族女性が嫁いだ際には、皇籍を離脱させます。女系継承を認めないという皇室の原理は天皇家の外に対しては際限のない継承者拡大を防ぐためであり、天皇家の内に対しては王朝の断絶を防ぐためであるのです(女系王即位による王朝断絶については、具体的にはヴィクトリア女王の子が即位したときに起りましたが、後段で改めて紹介します)。

16世紀前半に絶対君主として、ヘンリー8世(テューダー朝)が君臨しました。ヘンリー8世の死後、嫡男のエドワード6世が王位を継ぎますが、病弱であったため、15歳で逝去します。ヘンリー8世の子は、エドワード6世以外は女子であったため、メアリー1世とエリザベス1世の姉妹が王位を継ぎます。

メアリー1世とエリザベス1世の2人の女王には子がなかったため、女系王はこの時代、誕生しませんでした。2人の女王は国内外の政治的事情が複雑に絡み、結婚できませんでした。エリザベス1世は「私は国と結婚した」という有名な言葉を残しています。ただし、レスター伯をはじめ愛人とされる男は多くいました。それでも、子に恵まれず、テューダー朝は断絶します。

次のステュアート朝でも、17世紀末から18世紀初頭、メアリー2世とアンの姉妹が王位を継ぎますが、後継者に恵まれず、断絶します。やはり、ここでも女系王は誕生しませんでした。

女系継承容認という価値観が国民にも共有されてきた

そして、19世紀に登場する女王がヴィクトリア(ハノーヴァー朝)です。ヴィクトリア女王は大英帝国の最盛期を担い、1837〜1901年の64年間にわたり、君臨しました。ヴィクトリア女王は1840年、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバート公と結婚します。ザクセン=コーブルク=ゴータ家はドイツのザクセン家という有名な貴族の家系から派生した分家です。

コーブルク(ドイツ、バイエルン州北部の都市)とゴータ(テューリンゲン州の郡)を領有していたため、このような家名で呼ばれます。この家系が1831年以降、新たに独立したベルギー王位を世襲し、今日のベルギー王室に至っています。

ヴィクトリア女王が逝去すると、アルバート公との間に生まれた長男のエドワード7世が即位します。エドワード7世は女系王です。女系王であるため、父の家名に変更され、イギリスはザクセン=コーブルク=ゴータ朝(英語読みでサクス=コバータ=ゴータ朝)となります。つまり、ハノーヴァー朝の断絶です。

しかし、イギリスでは、女系継承容認の立場から、ヴィクトリア女王の直系血筋が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続を主張する人もいます。また、ハノーヴァー=サクス=コバータ=ゴータ朝という折衷名が使われることもあります。

現在のイギリスはウィンザー朝です。エリザベス女王の後を、チャールズ皇太子が継ぐと、エリザベス女王の夫で、チャールズ皇太子の父であるエジンバラ公の家名を加えたマウントバッテン=ウィンザー朝と家名を変える予定です。

マウントバッテン朝ではなく、マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのはやはり、ヴィクトリア女王の時代と同じく、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続というニュアンスを出すために、この王朝名を引き続き使おうとしていると考えられます。

このように、女系継承容認というのがイギリス王室の歴史的文化・原理として長い間培われ、国民にもその価値観が共有されてきたのです。

イギリス王室はその歴史背景において、日本皇室とまったく異なります。その差異がどのようなものであるかを再認識することによって、皇室の歴史文脈の独自性が色濃く浮かび上がります。皇位継承問題を考えるにあたり、こうした観点は有用な視座を与えてくれるものであると思います。