皆さん、遊ぶのは好きですか?

筆者も好きでよく遊ぶのですが、他人様を誘うと、なぜか少なからぬ方から「カネがない」という答えが返ってきます。

いやいや、お前さんに声をかけたのは遊びの誘いであって、別に酒代の無心じゃないんだよ。

で?遊ぶのか遊ばねぇのかどっちなんだ。こちとら遊ぶのに忙しいんだから早くしておくれ……すると奴さん、ここへ来てようやく「遊びたいけど、カネがない」なんて弱音が出てきます。

歌川豊国「たばこや源七実ハ坂田の蔵人 沢村宗十郎」文化九1812年

けっ、何言ってやんでえ。カネがねぇから遊べねぇなんぞと芸のねぇ……そもそもカネがなきゃ出来ないようなのは遊びの風上にもおけねぇ、ガキの道楽ってモンです。

大人が「遊ぶ」と言えば、必要なのは知恵とセンスとインスピレーション、それらをひっくるめたユーモア、つまり「遊び心」に尽きます。

……というわけで、今回は遊びにかけては天下逸品の江戸っ子たちが好んだ遊びの中から、特に遊び心が求められた「枯野見(かれのみ)」を紹介したいと思います。

どんな景色も一期一会

さて、枯野見と言いますのは、読んで字のごとく秋から冬の枯れた野原を鑑賞するという酔狂のこと。

というと「雪見や月見、花見ならともかく、一面枯草だらけの野っぱらなんて眺めて何が楽しいんだ」という野暮が聞こえてきそうなものですが、そんなら逆に伺います。

雪はただ白いですか?月はただ黄金色ですか?花はただ一色ですか?

……確かに、鮮やかな色、華やかな色は分かりやすく人の目を惹きます。しかし、雪も月も花も決して単色ではないように、枯野のも枯野なりの味わい深さがあるのです。

同じ場所でも時間や天気、挙げ句は気分に至るまで、見えるすべてが一期一会、二度と同じ景色は見られません。

今日ここに、この子がいるのも一度きり。もちろん、枯草の色も同じではない

どんな景色もかけがえのないご縁として丹念に鑑賞し、味わい尽くすのが大人の遊び心であり、一見地味な枯野なればこそ、一句ひねるようなユーモアのセンスがより一層問われるのです。

まとめ

「考えざる者、遊ぶべからず」―杉浦日向子

昔から「カネがなければ知恵を出せ、知恵を出すには汗をかけ」などと言いますが、とかく安直な快楽がもてはやされがちな昨今、センスを磨き、感性を研ぎ澄ますことに楽しみを創造する江戸っ子たちの生き方は、受動的な刺激に飽きてしまった現代人に大切なヒントを与えてくれているようです。

※参考文献:
杉浦日向子『うつくしく、やさしく、おろかなり―私の惚れた『江戸』』ちくま文庫、2009年11月10日、第一刷

枯野見(かれのみ)