仕事も恋愛も、自己実現も、自由に叶えられる時代。
それでも私たちは悩みの中にいる。

「この人でよかったんだろうか」
「ここは本当に自分のいるべき場所なのか」

東京・銀座の片隅に、そんな迷える東京男女たちが
夜な夜な訪れるバーがある。

オーナーをつとめるのは、年齢不詳の謎の美女、留美子

時にやさしく、時に厳しく、彼女は私たちの背中をそっと押してくれるのだ。

さて、今日のお客さまは-




重い荷物を抱えた女


-足が痛い。肩が、砕けそう…

野上紗綾は、肩紐が食い込んだゴヤールのサンルイGMを逆の肩に掛け直した。荷物でパンパンに膨らんだそれは、細いヒールの脚にも耐えがたい負荷をかけつづける。

東京・銀座は夜の18時。

艶っぽい着物姿の女性が優雅に行き交う金春通りを、大荷物を抱え必死な形相で闊歩する女はひときわ人目を引いた。もちろん悪い意味で。

紗綾はいまいましげにLINEを起動し場所を確認する。

-相談してみて。騙されたと思って
-[地図リンク]

仕事で知り合ったアリサという女によれば“その人”にかかればどんな悩みも必ずなんとかなるのだという

-どうしよう、本当に騙されたら

でも、もはや迷っている余裕はないのだ。
誰でもいい。この状況をなんとかしてくれるなら。

紗綾は痛む足を引きずりながら、先を急いだ。




「銀座ティム…?なんて読むの、これ」

目ざすその場所は銀座8丁目の路地裏、雑居ビルの2階にあった。深い朱色に塗られた扉には店名が書いてあるが、見たことのない単語だ。

おそるおそる扉に手をかけ、体をすべり込ませた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうに佇む細身の男と目が合う。

20代にも、40代のようにも見える。パリッと音がしそうなほど糊が効いた白いシャツに、額にかかるサラサラの前髪。紙のように蒼白い肌。胸のネームプレートには「タカハシ」とあった。

「…空いてますか」
「空いてますよ。どうぞ」

カウンター10席とソファ席があるだけの狭い店内には1人の客もいない。

「あの、私…会いに来たんです」

男の前髪の下の目がキラリと光ったように見えた。

「こちらのオーナーの“ルミ姐”っていう女性に」


銀座の片隅にあるバーに現れた、いかにもワケありな女、紗綾。彼女が抱える事情とは?


結婚さえすれば、なんとかなると思ってた


「タカハシさんって…ご結婚、されてるんですか?」

客が1人もいない店に入り30分を過ぎた頃。
重苦しい沈黙に耐えかね、紗綾は口を開いた。

突然変なことを聞く女だと思われただろうか。
でも仕方がない。いまの紗綾は、男を見れば気にせずにはいられないのだ。結婚しているのか、いないのか。

そして男にとって結婚というものが、どれほどの意味と重みを持つものなのか。

「僕はですね」

しかしタカハシの答えはそのどちらでもなかった。

「あなたがなぜそんなこと聞くのか知りたいです」
「え?」
「オーナーに教わりまして。女性に何か尋ねられた時は“なぜそんなことを聞くんですか”が模範解答だと」

-なるほど。確かにこの店、ちょっと面白いかも

紗綾は、ポツリポツリと初対面の男に身の上を語り始めていた。

「ずっと思ってたんです。結婚さえすれば、私の悩みは解決すると…」




夫は姿を消した。離婚届を持って


野上紗綾といいます。30歳です。

仕事は、青山にある外資系のジュエリーブランドでPRをしてます。結婚したら辞めるつもりだったんですが、夫が辞めなくていいよって言うから続けてます。

夫は野上祐也と言いまして、4歳上でコンサル会社に勤めています。28の時に付き合い初めて、半年後にプロポーズされました。

あの…私、恥ずかしいんですけど悩みがありまして。

男の人と2年以上続いたことがないんです。
必ず向こうから「付き合おう」って言われるのに「別れよう」って言われるのも向こうから。それすらなくて音信不通になることもあります。

原因は、分かりません。
見た目も気をつかってるし、雑誌とかWEBの記事で「彼女にしたい女」「妻にしたい女」の特徴、全部備えるようにしているのに…

だから。結婚した直後から不安でたまらなくて。
この人とも2年続かなかったらどうしようって。

夫の好みの料理とか、インテリアとか本や映画も覚えて。会話が弾むようにしました。

あ、今日のこの服もなんですけど。夫が「ミランダ・カーっていいよね」って言ってまして。

…確かに、彼女にはなれないですけど、せめて服とか雰囲気は合わせられないかなと思って。

一生懸命、理想の妻でいられるように生きてきました。私に落ち度はないと思います。

実は今日が、2人の結婚一周年記念日のはずでした。

でも…夫が、いきなりいなくなってしまったんです。

記入済みの離婚届を持って-



「記入済みの離婚届?」

紗綾が話している間、全く表情を変えないタカハシだったが、一応話はちゃんと聞いていたようだ。

「新婚の頃、夫が言ってたんです。夫婦がマンネリにならないためには記入済みの離婚届を持っておくといい。失うかもしれないという思いが二人をより結びつけるって」

「そんな話を信じたと」
「はい。言われてみればそうなのかな?って」
「じゃあそれを持って行かれたということは」
「はい。私…おそらく、もう…」

「離婚されてるかもしれないわね」

紗綾は心臓が止まるかと思うほど、驚いた。
振り向くと、ヘルメットを被り革のジャケットを着た長身の女が紗綾のすぐ後ろに立っている。

「い、いつの間に?」
「いまの間に」

その女がヘルメットを脱ぐと、ゴージャスに巻かれた長い髪がバサッと肩の上に広がった。

40代くらいだろうか、その年代にしては顔が小さく足が長い。ネコ科の動物を思わせる野生的な吊り目に、赤い唇。よく見ると額にはカギ裂きのような傷跡がある。

もしかしてこの人が-

「はじめましてお嬢さん。オーナーの留美子です」

女は子どものように歯を見せると、ニカッと笑った。


離婚届を持って姿を消した紗綾の夫。彼女の話を聞いてルミ姐がとっさに取った行動とは-


「しっかりつかまっててね!」
 
11月の夜風は、頬を切るように冷たい。
猛スピードで移り替わる景色の中、紗綾は考えていた。
 
なぜ私は、10分ほど前に出会った中年女性のバイクに2人乗りして、首都高を爆走しているのだろう、と-




-10分前-

ひと通り紗綾の話を聞き終わると、留美子さんは急に弾かれたように顔を上げた。
 
「あなた、家はどこ?」
「勝どきですけど」
「いま免許証持ってる?印鑑は?」
「一応、両方持ってます」
 
紗綾はぎっしりと荷物が詰められ膨らんだバッグに目をやった。何かのときに必要になりそうのものは全て持ち歩くようにしている。
 
「あなたは離婚したいの?」
「嫌です。絶対に嫌!離婚するくらいなら…」
 
紗綾は考えた。離婚するくらいなら、何だろう。
続く言葉が出てこない。
 
「分かったわ。…タカハシ」
「はい」
「いまは何曜の何時何分?」
「水曜の18時54分です」
 
じゃあ間に合う、留美子さんはそうつぶやくと、いきなり紗綾の手を掴んだ。
 
「急いで!今から中央区役所に行くから」
 


離婚を止めろ!


19時を数分回った頃に中央区役所に到着した留美子さんは、「本日の受付は終了しました」の札をまさに置こうとしていた区民生活課の職員を指差し、よく通る声で叫んだ。
 
「ちょっと待ったあーっ!」
 
突然の怒号に驚いている職員の肩をがっしり掴むと、今にも泣き出しそうな顔で訴える。
 
「かわいい姪の夫がね、悪い女に騙されて、勝手に離婚されそうなのよ…ひどいでしょう」
 
かわいい姪、とは紗綾のことだろうか。
 
「姪はいま妊娠してる。ねえあなた、真面目に税金払ってる善良な区民の未来がかかってるの。受付時間ぐらい融通するのが正義ってもんじゃない?そうよね!?」
 
こうして泣き落とし、というか嘘八百の半ば脅しのような形で留美子さんが手に入れてきた紙切れには、「離婚届不受理申出書」とあった。
 
「これは一体?」
 
「勝手に離婚届という卑怯なカードに打ち勝てる防御魔法よ。これさえ先に出しておけば、あなたが望む限り法的に2人は夫婦でいられる。ほら早く書いて」
 
留美子さんの話によると、離婚届は夫婦のどちらかが勝手に出しても簡単に受理されてしまうのだという。
 
そしていちど受理されたら最後、いくら片方に意志がなかったと主張しても、訴訟を起こして長く争うことになる、と-
 
「なんで知ってるんですか?こんなこと」
「昔、あったのよ。色々とね」
 
留美子さんはちょっと寂しげに微笑んだ。
 

 
幸い、夫の祐也はまだ離婚届を提出していなかった。
 
「…それでは、こちらで受理いたします。もし離婚届が提出された場合は紗綾さんに通知が行きますので」
 
19時17分。届出は職員に無事手渡され、紗綾は「知らないうちに離婚される」という最悪のシナリオは避けることができたのだ。
 
しかし、このとき紗綾はまだ気づいていなかった。
本当に最悪なことは、これから起きるということに-


離婚は避けられたものの、夫は帰らない。紗綾は、そしてルミ姐はどうする…?


「どうするの?これから」

中央区役所の駐車場。長い髪を器用にくるくるまとめ、ヘルメットにしまいながら留美子さんは尋ねた。

行き先のことか、それとも人生のことか。

どちらにしても紗綾の答えは一つだ。

「家に帰ります。夫がいつ帰ってきても迎えられるように、ちゃんと待っていないと」

「…そう。じゃあまたね」
「本当にありがとうございました」

紗綾はPRの仕事でいつもしているように、完璧な角度で美しく頭を下げた。

夫の祐也が「目を奪われたよ」と褒めてくれた仕草だ。

バイクにまたがり颯爽と去って行く留美子さんの背中を見送りながら、紗綾は中央区役所の庁舎にかかる月を見上げた。

-本当にどうしよう、これから…

夫に帰ってきて欲しいとは思う。でも、なぜ姿を消したのか聞くのが怖い。紗綾のことをこれからどうするつもりなのか、知ってしまうのが恐ろしい。

上空では、ちょうど半分に切ったような上弦の月が、冴え冴えと冷たく寂しげな光を放っている。

まるで、姿を消す前日の夫の横顔のようだった-




銀座8丁目の路地裏、雑居ビルの2階にその店はある。

店の名は「銀座Timbuktu(ティンブクトゥ)」。

アフリカのどこかの国の言葉で「世界の果て」という意味があるらしいその店は、検索しても見つけることはできない。

人生に悩み迷う人の元にある日、深い朱色に塗られた店の扉が開かれるのだ。

扉の向こうには、世界の果てから来た魔女のような、年齢不詳の女性オーナーがいる。

そしてそのオーナーに影のように寄り添い静かに店を守る美貌の青年も。

「ねえ、タカハシ」
「はい」
「とってもいい子そうだったわね、彼女」
「そうですね」
「おまけに美人だった」
「そうですね」

女性オーナーは手元でもてあそんでいたグラスのワインを一気に飲み干すと、顔を上げた。

「ちょっと調べてほしいことがあるのよ」

▶︎NEXT 12月11日 火曜更新予定
姿を消した夫は、紗綾の元へ戻るのか。そしてルミ姐が繰り広げるとんでもない解決劇とは?