私たちには呪いがかけられている。
いつでもかわいらしく身ぎれいに、
だって「女の子なんだから」。
人の輪を乱さずに、まわりに気を配るの、
だって「女の子なんだから」
男性を立てて。プライドを傷つけちゃだめ、
だって「女の子なんだから」。
キャリアを手にし、妻や母となっても、影のようにつきまとう呪いの正体とは?
30歳までに結婚。35歳までに妊娠。年齢リミットに追われるように生きてきたみゆき34歳は、夫との「レス問題」に悩んでいた。そんなみゆきを救った運命の出会いとは-
奇跡の瞬間を迎えたみゆき・39歳
「おめでとうございます!元気な男の子ですよ!」
-やっと生まれた…長かった、ここまで
みゆき(39)は安堵のため息を漏らした。
ずっと思い描いていた。傷つき悩み、それでも熱望し続けた奇跡の瞬間。なのに不思議と涙はこぼれなかった。
「ありがとうございます!ありがとうございます!やったなみゆき、大好きだよー!」
夫は興奮して同じ言葉をくり返している。ずっと握られていた手は、汗でぐしょぐしょだ。
「しっかりして、パパさん。お子さんよりも大泣きじゃないですか」
看護師が苦笑しながら、生まれたばかりのわが子をみゆき達の元へ運んでくる。
「ほら、パパにそっくりですね」
「本当ね。伸ちゃんによく似てる」
大きな耳が特にそっくりだ。みゆきの夫の、永田伸一郎(28)に。
「結婚してくれてありがとう、みゆき」
伸一郎は感極まったのかまだ泣き続けている。
11歳年下の夫、永田伸一郎と出会ったのは、前の夫である堂場芳樹と離婚して2年が経った頃だった。
そう、すべては「あのこと」から始まったのだ。
みゆきは思い返していた。
玲子さんという謎の女性から「あのこと」を聞き、踏み出すべきか、やめるべきか悩んだこと。
それをきっかけに、人生が大きく動き始めたことを-
離婚と再婚という荒波を超え、ママになったみゆき。その人生を大きく動かした「あること」とは?
呪いを解いた女の5年間
-5年前-
「こちらの玲子さんはね、いま42歳で1歳のお嬢さんがいるんだけど、出産した時は37歳だったの。さて、どういうことでしょうか?」
あの日、留美子さん(49)のバーで、夫に触れてもらえない悩みを打ち明けていたみゆき(34)の元に突然現れた謎の中年女性、玲子さん。
彼女が席に着くなり、留美子さんはクイズを出してきた。
「???」
さっぱり訳がわからない。成長が遅れる病気?それとも、何かの比喩なのだろうか-
「はい、時間切れ。正解はね」
留美子さんはドヤ顏でおつまみの皿を差し出す。そこにはうずらの卵のピクルスがのっていた。
「卵子凍結よ」
「科学の力で、呪いはとける」
-卵子凍結…
その4文字が醸し出す破壊力の強さたるや。みゆきは言葉を告げなかった。
「玲子さんと知り合ったのは6、7年前かな。その頃は外資コンサルにいらしたんだけど、今は独立されて。要はエグいくらい稼いでる女よ」
「そんな、留美子さんには負けますよ」
玲子さんは上品に口元を隠して笑ったが、その手首に巻かれた時計にはぎっしりダイヤが敷き詰められている。
-魔女だ。魔女同盟だ
みゆきは、おつまみで出されたうずらの卵のピクルスになんとなく手がつけられないまま、隣に座る女性の顔をちらりと盗み見た。
ストレートの長い黒髪、くっきりと引かれたアイライン、異様に白い歯。この雰囲気はもしかして…
「私の夫は、アメリカ人の経営者なんですが」
やっぱり。玲子さんには、富裕層の外国人夫を持つ女性に独特の雰囲気があった。
「彼と出会った時に私はすでに40歳を超えていました。お恥ずかしい話ですが、30代の頃は仕事に夢中で、男の人と付き合うなんてとても…」
「まったく恥ずかしくないわよ」
留美子さんは誰も手を付けないうずらの卵を猛スピードで口に運んでいる。
「30代前半までに結婚できないと女はダメだ、みたいに言われるのって、2つの原因があると思うのね。1つ目は、男がロリコンだから」
そういえば、聞いたことがある、留美子さんはかつてモデルの仕事をしていて、それはひどい年齢差別にさらされていたと-
「もう1つは、こいつの問題」
留美子さんの指に挟まれたうずらの卵は、そのままポイッと口に放り込まれた。
「35歳を過ぎると妊娠率が下がる、ってよく言うでしょ。でもそこには意外と知られてない事実が隠れてるの。ねえ、玲子さん」
「はい、ここで言う年齢というのは“卵子の年齢”であって、たとえば20歳で卵子を凍結しておけば、50歳の子宮にそれを戻して出産しても“20歳でできた子”になるんです、理屈上は」
なんということだろう。全く知らなかった。
「私の職場にはアメリカ人が多いですから、30代はキャリアに集中したい女性にとって卵子凍結は珍しくない話題でした」
「売買もできるもんね、あっちは」
「そうですね。日本にも厳密には規制する法律はないんですが、医学適応でない未受精卵の凍結が解禁になったのが2013年です。当時私は37歳で…多少の葛藤はありましたけど、すぐに実行しました」
年齢に振り回される人生は私らしくないから、玲子さんは、そこだけ自分に言い聞かせるようにそっと呟いた。
「で、その数年後に運命の出会いを果たしたと」
「はい。夫に出会う前に焦って誰かと結婚しなくて、本当に良かったと思います」
玲子さんは、携帯の待ち受け画面をうっとりと見つめた。いかにもハーフらしい、くりくりした目の愛らしい女の子が笑顔を向けている。
-年齢に、振り回される、人生…
「どう?みゆきちゃん。これってすごく…」
留美子さんにじっと見つめられ、みゆきは鼓動が早まるのを感じた。この変なおばさんはいつだって、みゆきの欲しいタイミングで、欲しい言葉をくれるのだ。
「ビジネスチャンスの香りがすると思わない?」
-はあ?
「私のために呼んでくれたんじゃないんですか!」
「んなわけないでしょ、玲子さんは忙しいの。私がこれから始める事業にアドバイスをもらおうと思って」
「うふふ、そのうち留美子さん、月にでも行っちゃいそうですね」
それから2人の魔女は、水を飲むような勢いでワインを次々と空にしながら、みゆきの分からない言葉で激論を交わし始めた。
◆
明け方。すっかりへべれけになった2人を置いて店を出ようとしたみゆきに、留美子さんはまたクイズを出してきた。
「みゆきちゃん…女にかけられた呪いをとくには、らにが必要らと思う?」
呂律が回っていないが大丈夫だろうか。
「自分で稼いだお金と、科学の力。あとね、いちばん大切らのは…」
留美子さんはそこまで言うとカウンターに突っ伏していびきをかき始めた。
「卵子凍結」はみゆき達夫婦を救うのか、それとも…?
タマゴのお値段
66万9,600円(税込)
これが、みゆきの“タマゴ”につけられた値段だ。
正確には、子どもを1人出産するのに必要と言われている数の未受精卵を複数回「採卵」し、凍結するまでにかかる費用だった。
-ぜ、絶妙な値段…
玲子さんの話を聞いてから、みゆきはすぐに都内のレディースクリニックをいくつか予約した。
すぐに動いた理由。それは、諦めるためだ。
「エグいくらい稼ぐ女」玲子さんのイメージから、卵子凍結は数百万かかるのだろうと想像していた。ならばスパッと諦めもつく。
でもこの値段は、大手人材会社でキャリアを積んできた34歳のみゆきにとっては、払えなくもない額である。
いっそ諦めてしまいたい理由。それは-
「ご主人には相談されましたか?堂場さんの場合、受精卵の凍結、あるいはその他の不妊治療という選択肢も検討されてよいかと…」
若い看護師が「卵子凍結を考える前に」と書かれたパンフレットを差し出してくる。
そう。“タマゴ”の老化を止めることで、年齢による焦りからは解放されるかもしれない。
しかしそれは同時に、夫の、芳樹の子どもを1日でも早く授かりたいという気持ちを手放すことでもあった。
「ちょっと考えます」
みゆきはパンフレットだけを鞄に入れてクリニックを後にした。
レディースクリニックからの帰り道。『サラベス東京店』のテラス席でブランチをとりながら、みゆきは考えていた。
やるべきか、やらざるべきか。
いずれにしても夫に相談しなくてはならない。
その時、LINEの通知音が鳴った。夫の芳樹からだ。
「出張前バタバタしててごめん!帰ったらゆっくり話そう。連休どこ行きたいか考えといて(スタンプ)」
芳樹は、昨日から仙台出張で不在だ。前はこんな気遣いなど見せもしなかったが、ずいぶん成長したものだ。
みゆきは心がじんわり温まるのを感じた。
-私が間違ってた。やめよう、卵子凍結なんて
夫の冷たい態度も、妊活の焦りを理由に追いつめていたからかもしれない。
まずはちゃんと話し合う。それでもダメなら、夫婦2人の人生だって悪くない。
そう決めただけで、目の前の景色が晴れるようだった。単純なものだ。テラスを吹き抜ける風が心地よい。
実に清々しい気持ちで、平日の昼間にテラス席で食事をとる人々を見渡す。そして-
みゆきの目は一番奥の席で止まった。コロコロと笑い声を上げる、20代後半くらいの美しい女性、その向かいにいる、恋人らしき男。
後ろ姿でも分かる、少しクセのある髪と、トムフォードのウェリントン。それは、出張で東京にはいないはずの、夫の芳樹だった。
夫の裏切りを知ったみゆき。そして彼女は-
-現在-
2023年、秋。平成が終わり、東京オリンピックも遠の昔に終わったというのに、東京はまだまだ「昭和の価値観」を引きずっている街だとみゆき(40)は思う。
もうすぐ1歳になる息子の光一郎を連れて街を歩いていても、夫の伸一郎(29)と連れ立って歩いていても、みゆきに向けられるのは好奇のまなざしだ。
-ずいぶんと高齢出産で、頑張ったのねえ
-若い旦那なんか連れちゃって。格差婚かしら
未だに女は「年齢」という見えない鎖に縛られている。
◆
2018年のあの日。レディースクリニックの帰り道、元夫である芳樹の浮気現場を目撃してから、みゆきの行動は早かった。
現場写真をおさえ、芳樹に一言LINEを送ると、その足でクリニックに引き返して「採卵」の予約をとった。
それから…色々なことが、実に色々なことがあって、みゆきは今ここにいる。
66万9,600円を支払い、卵子を凍結しただけで全てが解決した訳ではない。
ハイスペ夫と離婚してからは、ひたすら仕事に明け暮れた。そして卵子のことなど年に1回の「凍結更新通知」が来なければ忘れてしまう程になった頃、今の夫である伸一郎と出会い、11歳という年齢差を超えて恋に落ち-
驚くことに、自然妊娠で息子を授かった。
傷つき、泣き、葛藤し、多くを失い、それでも何かを諦めきれずに。この5年で、なんと自分は強くなったのだろうとみゆきは思う。
まるで、あの人…留美子さんのようだ。
「みゆきと光一郎のことは、僕が守るから」
父親になってからぐっと頼もしくなった夫に、みゆきはほほ笑み返す。
「じゃあ、そんな伸ちゃんを私が守るね」
◆
留美子と、みゆき。
年齢という呪いを巡る女たちの物語はここまでだ。
ヒステリー。うつ病。色素欠乏症。生理痛。
信じがたいことだが、これらは全て、科学の力で原因が解き明かされる前は「呪い」と呼ばれていたものだった。
かつて留美子はみゆきに、こう伝えようとした。
女にかけられた呪いをとくために必要なもの。それは自分で稼いだお金と、科学の力。あといちばん大切なのは-
自分の強さを信じること、である。
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