◆明治維新は、議会制民主主義に基づく平和国家をつくる構想を潰した!?

 近代日本の原点は明治維新だった。維新の志士たちが封建的で遅れた江戸幕府を倒し、新しい日本が生まれた。もしあのとき武力で徳川体制を倒していなければ、日本は列強の植民地になっていたかもしれない――。

「明治維新万歳!」

 かなり多くの人がそう思っていることだろう。筆者自身がつい最近まで、「明治維新は正義」という薩長史観に少なからぬ影響を受けていた。しかし180度逆に歴史を見ると、目の前の風景がガラリと変わってくる。

 実は、江戸時代末期の慶応年間には、主要な改革者たちの間では、議会制民主主義に基づいて平和的に新しい日本をつくる構想が主流となっていた。薩摩や長州が武力とテロでその構想をつぶし、祭政一致・天皇を現人神にする専制国家をつくったのが明治維新だ。

 NHKの大河ドラマに感動したり、司馬遼太郎の歴史小説を読んで血沸き肉踊ったり、ときには目をウルウルさせる人たちにとって、ものすごく不快な視点、いや、事実かもしれない。

 信じているものが否定されれば、いま立っている地面に亀裂が走り、船底に穴が開いて今にも船ごと沈んでしまうような焦りと喪失感に襲われてしまうからだ。しかし、うれしくない事実にも目を向けてみよう。

 そうしないと、今現在抱える問題の根っこが見えないからだ。

◆江戸末期に生まれた、民主的な国家構想

 信州上田藩に赤松小三郎という若くて無名で貧乏なサムライがいた。彼が数え36歳の1867(慶応3)年5月、日本史上初めて全国民に参政権を与える議会開設や法の下の平等など、いまの民主主義体制につながる憲法構想を提案した『御改正口上書』を執筆している。

 議政局(議会)のうち下局(衆議院)の参政権については、身分や財産・性別などによる制限がまったく書かれていない。

 議政局(議会)は天皇より権限が強く、国権の最高機関という位置づけだ。国軍3万1000人以外にも民兵制度を創設。福井藩主・松平春嶽宛のバージョンでは、普段はさまざまな職業についている「国中之男女」が定期的に地元で軍事訓練を実施し、いざというときに備える。

 女子も軍事訓練に参加することをわざわざ書いていることから、男女に参政権を付与する考えだったと推察できる。当時最先進国のイギリスでも、男子普通選挙すら実現していなかった。世界中のどの国も実現していなかった民主国家構想を赤松小三郎は堂々と公表していたのだ。

 赤松の構想は、翌月に結ばれた薩土盟約(薩摩と土佐の盟約)に影響を与えた可能性が高い。なお、坂本龍馬の構想「船中八策」がその基になったと長年信じられてきたが、文書そのものが存在せず写本もなく信ぴょう性が低い。

 薩土盟約のポイントは大政奉還、下院議員は全国民を対象とし選挙で選ぶこと。さらには、朝廷の制度法則も、大昔の律令時代にもどるのではなく改革して、地球上のどの国と比べても恥じることのない憲法を制定する旨が書かれている。

 赤松の立憲主義構想も薩土盟約も現在の日本国憲法体制に通じる。しかも盟約合意の席には、薩摩からは家老・小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、土佐からは後藤象二郎ら4名。仲介者として坂本竜馬、中岡慎太郎も出席。そうそうたるメンバーが承認した議会制民主主義の国家構想だった。

 さらにいくつもの大藩が支持し、あと少しで武力によらず“平和維新”が実現し、庶民にいたるまで選挙に参加する議会制民主主義の国が誕生する可能性が高まっていた。

◆西郷隆盛が“転向”、赤松の暗殺で民主国家構想が闇に葬られた!?

 ところが、日本支配を狙うイギリスをバックに西郷隆盛が“転向”した。彼は薩摩長州同盟の強化へ舵を切り、武力とテロで権力奪取へなだれ込む。