今なおファンに絶大な人気を誇るR32型の「スカイラインGT-R」(写真:日産自動車ニュースルーム)

新車価格450万〜530万円程度。25年以上前の中古車が、今なお安くても200万円、高いと1000万円もの値をつける――。

伝説のクルマ、R32型の「スカイラインGT-R」

そんな伝説のクルマが、1989〜1994年に日産自動車が新車で販売していた「スカイラインGT-R」だ。車両型式「BNR32」から付いた通称が「R32GT-R」。ベース車のR32型スカイラインの2ドアクーペモデルに、強力なエンジンをはじめとするレース車並みのメカニズムを搭載。ベース車よりもボディサイズを拡幅して見た目の迫力も増したモデルである。


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R32GT-Rは熱狂的なファンに親しまれ、海の向こうアメリカでも大人気を博している。フェラーリやランボルギーニのようなスーパーカーならともかく、古い日本車では珍しい。なぜ、R32GT-Rはここまで評価されているのか。スカイラインやGT-Rの歴史とともに考察してみよう。

1989年のフルモデルチェンジにより8世代目となったR32スカイラインは、前型のR31スカイラインに比べ車体の全長と全高を小さくして登場した。今日も含め、新車登場の折には前型に比べ大きくすることで、進化の様子や上級志向を示すことが行われている。

ところが、R32スカイラインは小型化という道を選んだことに、当時は驚きが広がった。

また外観も、「ハコスカ」と愛唱された3世代目スカイライン以来続くいわゆる箱型というべき四角く立派に見える姿から、丸みのある格好に変わり、偉そうには見えない造形となった。販売店からは、さっそく「トランクにゴルフバッグが積みにくい」など小型化への苦情が日産に入ったようだが、小型化と丸みのある外観には意味があった。

R32スカイラインの開発主管を務めたのは伊藤修令氏である。伊藤は日産自動車と合併前のプリンス自動車工業出身である。スカイラインはそもそも富士精密工業(後のプリンス自動車工業)から生まれたクルマであり、日産と合併後は日産・スカイラインとして開発・販売されてきた。初代〜2世代目のスカイラインは、3世代目のハコスカに比べやや丸みを残した外観であり、R32スカイラインはプリンス自動車出身の伊藤の体内にあるプリンスDNAが体現されたと考えるのは、想像を膨らませすぎだろうか……?

もう1つ、R32スカイラインが小型かつ丸みを持った外観となる背景にあったのが、4世代目のケンメリスカイラインを最後に途絶えていたGT‐Rの復活である。

スカイラインは、富士精密工業の時代から航空技術者たちの技術に対する思いから生まれた一台であり、2代目のスカイラインがレースでの勝利を目指し、もともと1500ccの直列4気筒エンジン用に開発された車体前部を伸ばして2000ccの直列6気筒エンジンを搭載したスカイラインGTを開発することにより、ポルシェ904と鈴鹿サーキットで競った話は有名だ。

2000GTの後継ともいえるのが、3世代目スカイラインのGT‐Rである。2代目に比べ、やはりここでも車体が大柄になって上級志向となったハコスカスカイラインが、レースで勝つために生み出されたクルマである。R380という、これもプリンス時代に開発が始められたレーシングカーに搭載されていた直列6気筒DOHCエンジンの設計者が、同じ構想でGT‐R専用に設計したエンジンを搭載してハコスカGT‐Rは誕生した。そしてレース参戦以来、52勝という記録を打ち立てた。

その後、4世代目スカイラインにもGT‐Rは存在したが、ケンメリスカイラインと愛唱された4代目のGT‐Rはレースに出場することなく、197台という少量生産で打ち切られた。

グループAによるレースで勝利するために

そこから16年の歳月を経て、R32スカイラインでGT‐Rが復活することになったのである。


「R32GT-R」の上級グレード「V-spec」のリアスタイル。レトロだが今なお魅力のあるスタイリングだ(写真:日産自動車ニュースルーム)

復活の理由は、当時のツーリングカー選手権の世界規定として制定されていたグループAによるレースで勝利するためであった。必勝を期して、GT‐Rはよみがえったのである。

世界的なレース規則の中で勝利するという、明快な目標のため、R32スカイラインはGT‐Rの基準車両として小型化され、また丸みを帯びた外観を作り上げたのである。そのため、上昇志向を満たす見栄えのよさや、ゴルフバッグを4個積むためのトランク容量はまったく無視された。

グループA規定は、非常に厳しい制約があった。たとえば、レースに出場するためには、年間生産台数が5000台以上の量産車であることが条件となっていた。幅広いレーシングタイヤを装着するためあとから追加されるオーバーフェンダーやリアスポイラーなど、量産車の外観を崩す外装の取り付けは禁止。それに合わせ装着できるタイヤ寸法は、エンジン排気量に応じて限度が定められていた。

グループAが目指したのは、庶民に近い存在である市販ツーリングカーのレースにおいて、エンジン性能や外観が量産車から著しく進化しすぎることを抑えることにあった。そしてより多くの参加台数をそろえ、熱のこもった競争が展開されることが期待されたのである。

それでも、欧州の自動車メーカーを中心に、特注車両ともいうべき高性能車が市販されるようになり、すでに市販されているクルマにグループA規定をそのまま適用してもなかなか勝てない状況が生じた。

日産も、R30やR31スカイラインにRSやGTS‐Rといった高性能仕様を追加し、性能強化を行いはしたが、たとえばBMW「M3」や、フォード「シエラRS500」といった車種に先を越される情勢だった。そこでなんとしても勝つために、GT‐R復活が決定されたのである。

競合他車を周回遅れにする速さ

R32GT‐Rの2600cc(正確には2568cc)という一見半端に見えるエンジン排気量も、グループA規定の中でターボチャージャーによる過給に対する排気量換算係数を加味しても、最低車両重量で有利に立つための選択だった。アテーサE‐TSという電子制御による4輪駆動も、車体外板の内に収まるグループA規定に従った細身のタイヤ寸法で、500〜600馬力のレース仕様エンジンの出力を速さに生かせるグリップを確保するためである。


RB26DETTの型式で、R32GT-Rに搭載されていたエンジン。2568ccという中途半端な排気量にも意味があった(写真:日産自動車ニュースルーム)

また、GT‐Rには、R32スカイラインの基準車よりやや幅広いフェンダーが当初より採用され、それはグループA規定内最大のタイヤ幅を覆うためであった。さらにトランクリッド上には、GT‐R専用の大きなリアスポイラーが装備された。

こうして登場したR32スカイラインGT‐Rは、国内ツーリングカー選手権開幕戦で競合他車を周回遅れにする速さを見せ、圧倒的な勝利を収めたのである。また海外においても、スパ・フランコルシャン24時間レースなどにおいて、総合優勝を勝ち獲っている。国内のグループA選手権では初戦での勝利以来29連勝を記録し、GT‐R復活の目標は見事に達せられた。

R32GT‐Rは、総生産台数4万4000台近くという歴代GT‐Rで最大の数を誇った。ハコスカGT‐Rが2000台強の総生産台数であったから、とてつもない数である。

グループAによる全日本ツーリングカー選手権は、1993年に終焉を迎えた。そして、R33スカイラインへモデルチェンジをするのが、同年である。R33スカイラインのGT‐Rが登場するのは、1995年のことだ。世界的なツーリングカー選手権は、排気量2000ccの自然吸気エンジンを搭載した4ドアセダンで開催されるようになり、GT‐Rが戦うべきレースはなくなった。とはいえ、熱狂的なR32GT‐R人気をそのままで終わらせることはできず、R33GT‐Rが誕生することになる。

しかしすでに戦いの場を失ったGT‐Rの母体となるR33スカイラインは、車体寸法が大きくなり、荷室も容量を増やしてゴルフバッグが4個積めるようになった。R32GT‐Rで培われた高性能エンジンを搭載したとしても、GT‐Rが目指すべき目標が失われたといって過言ではない。

それは、R34GT‐Rについても同様と言えた。R32GT‐Rの時代からドイツのニュルブルクリンクを走る能力を備え、その周回タイムを更新することも行われてきたが、何を目指したのか? 目標を失ったGT‐RはR32時代ほどの存在意義を持ちえなくなったと言える。

「時速300kmで会話を楽しめる」ことを目指す

現在のR35GT‐Rにおいても、しのぎを削る戦いの場を持っているわけではない。ただ、R33〜R34GT‐Rに比べ、日産スカイラインという上級4ドアセダンの枠組みを外れ、世界のGT(グランドツアラー)と競合し「時速300kmで会話を楽しめる」ことを目指すとした、開発責任者、水野和敏氏の目標は、明快だった。そして、ニッサンGT‐Rと名乗ることにしたのである。


スポーティなステアリングやセンターコンソールの3連メーターなど、オーナーの心をくすぐるコクピットだ(写真:日産自動車ニュースルーム)

その性能目標達成のため、サーキットを徹底的に走り込み、ニュルブルクリンクを開発の場として駐在し、ドイツの競合車と肩を並べる高性能と安定性を確立した。また、あえてヨーロッパのレースへも参戦し、ポルシェなどと競うことも行った。

だが、レースで勝つという単純明快で、なおかつ結果が明白になる目標へ向けての背水の陣というか、生死を分かつほど追い詰められた状況で性能を作り上げていったR32GT‐Rに比べれば、クルマに込められた必死の思いは弱かったといえるかもしれない。

R32GT‐Rに乗ると、当時の開発者たちの後へ引けぬ緊迫感が伝わってくる。イグニッションキーをひねり、エンジンが始動した途端に鳥肌が立つほどである。

R32GT‐Rへのあこがれや、いまなお高い価値が見いだされている理由は、ハコスカ時代の名を汚すことなく、ただひたすら勝利を目指した純粋な思いが、その姿かたちから機能・性能に至るまで魂となって宿っているからではないだろうか。