[画像] スピードよりも、制球とキレ 「甲子園に行くことしか考えていない」松本晴(樟南)

 松本 晴の存在を強烈に印象付けた「デビュー戦」は1年前の夏の準々決勝・大島戦だ。9回二死までノーヒットノーラン。最後の打者に1本だけボテボテの内野安打を打たれて大記録は逃したが、大島・塗木哲哉監督をして「見入ってしまって、どう攻略するかのヒントも与えられなかった」と言わしめた快投だった。その年の春にはベンチにも入っていなかった2年生投手だったが、樟南のエース番号を背負うにふさわしい逸材であったことを証明してみせた。

スピードよりも、制球とキレ

松本晴主将(3年)

「あの時のインタビューでは『7、8回ぐらいからノーヒットノーランを意識しました』と話しましたが、実は最初から狙っていました」(笑)

 1年前の夏を振り返る。相手の大島は春、NHK旗とベスト4に入った強豪。「強いチームを相手に自分の投球がどこまで通用するか、楽しみにしていた」と4回戦までとは1段階ギアが上がっていた。右打者の膝元低めに食い込む直球、そこから曲がる高速スライダーが面白いように決まり、大島の打者に狙いを絞らせなかった。

 「兄のミットだけを見て、思い切り投げるだけでした」

 好投の半分以上はこの時マスクをかぶっていた1つ上の兄・連(現・亜細亜大)のおかげだ。「兄弟バッテリーで甲子園に行く」と秘かに温めていた夢がにわかに現実味を帯びた準々決勝だった。

兄弟バッテリー

 本格的に野球を始めたのは小学4年生だが、それ以前から「遊びで野球をやっているときも兄とバッテリーを組んでいました」。父・吉史さんは名門・天理(奈良)出身の元高校球児。連は右投げ右打ちの右利き、晴は左投げ左打ちで、字を書くのも左。左利きになった理由はよく分からないが、野球は同じく左投げ左打ちだった吉史さんに左にさせられた記憶がある。「多分、父が兄弟バッテリーを見たかったのではないでしょうか?」と推測する。吉史さんが描いた通り、兄弟は本格的に野球を始めた時からもバッテリーを組んだ。

 高校の進学は当然、甲子園を狙えるところになるわけだが、吉史さんは「家から通える学校には行かせたくなかった。寮生活を経験させたかった」という。鹿児島の樟南を意識したのは中1の夏。13年夏、樟南OBの知人からアルプス席のチケットをもらって連や友人たちと見たのが樟南と前橋育英(群馬)の試合だった。敗れはしたものの、その年の夏を制した前橋育英を相手に0対1の接戦を演じた樟南野球に惹かれるものを感じた。この時のエースが左腕の山下 敦大だったこともあって親近感を覚えた。

 1年先に連が入学。年の近い男兄弟なら思春期にはいろいろな感情があるものだが、晴にとっては「仲も良かったし、やりやすいと思った」と迷いなく兄の後を追った。幼い頃から一緒にいて、遊びの頃から組んでいた連のミットに「何も考えずに思い切り投げる」のが晴にとって一番自分の力を発揮できるプレースタイルだった。

浜屋、畠中の存在

松本晴主将(3年)

 入学して一番影響を受けたのが2つ上の3年生に浜屋 将太(現・三菱日立パワーシステムズ)、畠中 優大(現・中央大)という2人の左腕投手がいたことだ。県内では抜群の安定感と奪三振率を誇った浜屋はもちろん、夏の大会が始まるまでは恵まれた素質がありながら結果を出せずに苦しんでいた畠中が、黙々と努力をしていた姿を身近で見ていた。

「練習が終わった後の夜や朝練習でポール間をひたすら走ったり、シャドー投球でフォームづくりをしていた」姿は何よりのお手本だった。

 16年夏、最大のライバル鹿児島実との延長15回引き分け再試合に及んだ死闘を制して甲子園の切符をつかんだ。花咲徳栄(埼玉)に敗れた試合をアルプスで見ていた晴は「こういうチームにも勝って、先輩たちを超える投手になりたい」と強く誓った。

 兄・連が中心学年になった1年秋はベンチ入りするも兄弟バッテリーを組む機会はなく、翌春はベンチ入りできなかった。チームも秋はれいめいに初戦敗退、春は準決勝で鹿児島実に打ち負け、NHK旗は準決勝で神村学園に1対12の7回コールド負けの完敗を喫するなど、思うような結果を残せなかった。樟南野球の核とも言うべき柱となる投手、バッテリーを作り切れていなかった。チームの「非常事態」に晴は「1つ上の先輩たちがなかなか調子を上げきれていない中で、自分がやるしかない」と決意した。

 公式戦での実績は全くなかったが、自信をつけたのが夏前の関西遠征だった。奇しくも父の母校である天理を相手に8回まで4対2とリード。結果的には4対4の引き分けだったが「試合を作れたことが自信になった」。龍谷大平安(京都)にも6回まで投げて更に自信を深めることができた。

 県大会の登板実績がない2年生投手が、夏に樟南のエース番号を背負うという過去あまり例のない異例の抜擢だったが、晴はこの期待に見事に応えた。冒頭で述べた大島戦で樟南のエースの名に恥じない好投でインパクトを残し、準決勝の神村学園戦を迎える。

 NHK旗では大敗した相手だったが、先に2点を先制。同点に追いつかれたが、6回裏に連が2点タイムリー二塁打を放って、勝ち越す。4回まで神村学園打線を無失点に抑えていた晴だったが「7回ぐらいから半分熱中症にかかっていました」と振り返る。再び同点とされ、サヨナラ勝ちのチャンスをものできず、延長戦で力尽き「兄弟バッテリーで甲子園に行く」夢は叶わなかった。

主将として

主将としてチームを引っ張る松本晴(3年)

 中心学年になってからは晴が主将に抜擢された。「小中学校でも主将の経験はなかった」が「夏を経験した選手に、チーム全体を引っ張ってもらいたかった」と山之口和也監督が白羽の矢を立てた。 夏の実績からこの1年間、常に注目を浴びる存在だったが、昨秋は準々決勝で鹿児島情報に惜敗、春は決勝に進んだが準優勝、NHK旗は鹿児島実に初戦で惜敗と「チームをちゃんと引っ張っていけなくて、悔しい思いしかしていない」1年間だった。 今春は左肩痛にも悩まされた。しばらく投げないと痛みは治まるが投げると痛みが出て、連投が利かなかった。レントゲンやMRIでも異常はなく、原因が判明しなかった。痛みを気にせず全力投球できるようになったのはつい最近である。

 あれこれ試行錯誤しながら、「上体だけで投げている」フォームの欠点を改善することに思い至った。速いボール、キレのあるボールを投げようとする気持ちが強すぎて上体だけで投げていた分の負担が肩にかかっていた。下半身を意識したフォームづくりをするようになってから肩の痛みも出なくなった。

 肩痛を経験してから、投球に対する考え方も変わってきた。「スピードよりも制球とキレ」を大事にするようになった。前述したように松本の最大の特徴は右打者の膝元に厳しいボールを投げられることである。しかし、厳しいコースを狙いすぎて四死球を出すのが大きな欠点でもあった。失点や、敗戦になった試合はいずれも四死球がらみで自滅するパターンがほとんどだった。以前は「9割ぐらいがインコース。力のあるボールが投げる」ことしか考えていなかったが今では「インコースで勝負するためにアウトコースを使ったり、ボール1個の出し入れを意識する」ようになった。

 主将を経験したことも、投球の幅を広げるのに役立った。

 「投手だけだったら、投球のことしか考えなかったけど、主将をしたことでチーム全体のことを考え、チームの勝利を第一に考えられるようになった」

 「何も考えず、兄のミットだけを見て思い切り投げる」だけだった晴だが「相手の打者を見て考えて投球する」ようになったのも主将の経験が生きている。

 将来は「子供たちに夢を与えるプロ野球選手」になるのが夢で「菊池 雄星投手のように力で抑えられる投手」になるのが理想だが、今の自分にそんな力がないのは分かっている。球速よりも「制球とキレ」を重視し、この1年間、「悔しい思いしかしてこなかった」忸怩たるものを晴らすためにも、「チームの勝利を第一に考えて、自分の役割を果たし、甲子園に行くことしか考えない」覚悟だ。

(文=政 純一郎)