そして2002年6月9日、横浜国際総合競技場。伝説の夜だ。
 
 強豪ロシアを相手に一進一退の攻防を繰り広げる日本。迎えた51分、左サイドに流れた柳沢敦からグラウンダーのパスが中央に入る。オフサイドラインぎりぎりで受けたのが、稲本だった。冷静にGKラスラン・ニグマトゥリンの位置を見定め、ゴールに流し込んだ。金髪のボランチは2戦連続で大仕事をやってのけ、これが日本のワールドカップ初勝利を導く決勝点となった。
 
「勝たなアカン状況やったけど、硬さはなかったし、ロシアに負ける気がしなかった。なんであそこにおったんやろなとは思うけど、トラップで決まった感じ。一発で撃てるところに止めれたのが良かった。日本サッカーにとっては歴史的な一日やったんでしょうけど、僕はその足で静岡に帰りましたからね。よし次で決めるぞって感じで、そこまで余韻には浸ってない感じでしたよ。ほかのみんなも大会に集中し切ってましたから」
 
 日本は2勝1分けでグループリーグを突破し、初めてラウンド・オブ16に駒を進めた。決戦の相手は、最終的に3位入賞を果たすトルコ。雨が降りしきる利府の宮城スタジアムで、日本の快進撃は急停止した。
 
 0-1の敗北。「なんで(前半で)替えられたんかな、っていまでも思う。トルシエはああいうところがあるんですよね」と呟いた。
 
 ジーコジャパンでは、さらにステータスを確固たるものとした。
 
 中田英寿、中村俊輔、小野伸二と奏でた和製・黄金のカルテットは、いまでも語り草だ。だが、稀代のボランチは思い悩みながら取り組んでいたという。
 
「クラブと代表の両立ってところで、いろいろ考えるところはありましたよ。クラブで試合にあんまり出れてない中でも、代表にはつねに呼んでもらえる。そこでの葛藤はあったし、一方で、代表があったからクラブでも頑張れるという気持ちもあった。いろいろ難しい、考えさせられた4年間でしたね。もちろん移動や時差調整の厳しさもあったし」
 
 2004年6月の英国遠征。1-1で引き分けたイングランドとの親善試合で、稲本は左足の腓骨を骨折してしまう。全治3か月。この大怪我の影響もあってフルアムからウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンへ活躍の場を移すのだが、ジーコジャパンでの立ち位置においても、これがひとつの分岐点となる。
 
 稲本不在のなか、チームは酷暑の中国アジアカップで優勝。福西崇史や小笠原満男、遠藤保仁のステータスが一気に上がった。
 
「ジーコさんの考えとしては、レギュラーは順番だと。いっかいそこから落ちると取り戻すのは大変やったし、実際にワールドカップでもレギュラーを奪い切るまでには至らなかった」
 
 迎えたドイツ・ワールドカップ。稲本はグループリーグ初戦のオーストラリア戦をベンチで見守った。ゲーム終盤に攻守両面で瓦解するジーコジャパンを目の当たりにし、なにもできないもどかしさを感じた。
 
「ラッキーなゴールで先制したんやけど、勝ってるだけに難しさがあった試合。ディフェンスラインに怪我人が出るアクシデントに対して、準備が不足してたし、1点取られてからバタバタした。攻めるのか守るのか分からない状況で。僕の出番かなと思ったけど、監督が選んだのはシンジ(小野伸二)。これは点を取りにいくんやなと思った。でも、そのメッセージが伝わってなかったんかな。あの日はものすごく暑くて、冷静に判断できんところがあったんかもしれん。前と後ろのやりたいことが噛み合ってなかった。ディフェンスラインを上げれない状況で、前がどんどん行ってしまってね」