今夜11時59分から新木曜ドラマ「黒い十人の女」(読売テレビ制作・日本テレビ系)がスタートする。このドラマの原作はいまから半世紀以上前、1961年に公開された同名の映画だ。オリジナル版の監督は「犬神家の一族」や記録映画「東京オリンピック」などで知られる市川崑で、脚本を市川の妻にして名コンビと謳われる和田夏十(なっと)が手がけた。今回のドラマでは脚本をバカリズムが担当する。ピン芸人として自ら演じるだけでなく、近年では連ドラ「素敵な選TAXI」などで脚本家としても注目されるバカリズムだけに、今回のリメイクには期待が高まる。

オリジナルの「黒い十人の女」は1997年にニュープリントによりリバイバル上映され、私も渋谷の映画館まで観に行ったのをよく覚えている(たしか本編の前にもう一本、60年代に市川崑が撮ったコマーシャルフィルムも上映されたのだった)。


リバイバル上映は、このころピチカート・ファイヴのリーダーだったミュージシャンの小西康陽による再評価がきっかけとなっていたはずだ。小西はその十数年前に「黒い十人の女」を東京国立近代美術館のフィルムセンターで観て、市川崑を“発見”したという(小西康陽『ぼくは散歩と雑学が好きだった』朝日新聞社)。べつの文章で小西は、「黒い十人の女」についてその「圧倒的なグラフィックセンス」を讃えている(小西康陽『これは恋ではない』幻冬舎)。

たしかに「黒い十人の女」のグラフィックセンスにはいまだに目を見張る。冒頭で、夜道をゆくひとりの女(山本富士子)を8人の女が一直線に並んで追いかけるカットからして、スタイリッシュでしびれてしまう。なお、このとき女がタイトルの人数より足りないのは、一人が然る事情から死んでしまっているから。死んだのは宮城まり子演じる印刷所の経営者だ。冒頭の場面で宮城が亡霊として現れるのが、どうにも人を食っている。

圧迫感のある空間の連続


この映画のストーリーを一言で要約するなら、「十股をかけた浮気性の男を相手の女たちが殺そうとする話」とでもなるだろうか。その男、テレビ局のプロデューサー・風松吉を船越英二が演じている。今回のリメイク版で主演を務める船越英一郎の父親だ。風殺しに参加する10人の女は、山本富士子演じる妻の双葉を中心に、女優の石ノ下市子(岸恵子)、先述の印刷所経営の三輪子、コマーシャルガールの四村塩(中村玉緒)、テレビ演出家の後藤五夜子(岸田今日子)、受付の七重(村井千恵子)など、名前にみな数字が入っている。それにしても、当時22歳の中村玉緒のかわいらしいこと。劇中、彼女がたまたま控室で会った伊丹十三(当時は一三)演じるアナウンサーに胸をときめかせるシーンもすてきだ。

この映画は全編を通して、出てくる場面がどれも妙に狭苦しい。たとえば山本富士子はレストランを経営しており、その2階の部屋で岸恵子と密談したり、夫とほかの女たちを集めたりするのだが、ふすまと食卓のあいだには屏風絵のようなものがデンと置かれ、いかにも窮屈だ。ほかの場面でも、人物同士が室内で会話するシーンで壁がやけに強調されているし、テレビ局のシーンは満員の食堂や狭い廊下といい、機材で埋まったスタジオの副調整室といい、どこもかしこも圧迫感を受ける。実際、市川は撮影にあたって屋内で超望遠レンズを多用するなどしたという。こうした計算ずくの空間演出は、籠の中の鳥のような生活を送る現代人への風刺ともとれる。

唯一の例外は、風がテレビ局の屋上へ出たところ、百瀬桃子という新人女優(森山加代子)と出会うシーンだ。眼下に広がる街の夜景を見ながら、風はじつにさりげなく彼女を抱きしめ、キスをする。このシーンは、本作における清涼剤的なシーンといえる。もっとも、「お父さんに抱かれてるみたい」という桃子のセリフからは、風をけっして男とは見ていないことがうかがえ、ちょっと寂しい。

「時間に追いかけられながら自分をフルに使うのが現代の生き方」か?


船越英二演じる風は、女性に対しても仕事に対しても手前勝手で調子がいい。スポンサーをしくじったときにも、さほど焦ることなく、先方に電話をかけて適当にやりすごそうとする。彼の発する言葉はどれもその場しのぎで心がなく、彼に内面はあるのだろうかと思わせるほどだ。

女性とのつきあいも、実際のところもはや飽きているふしがある。少なくとも性欲に満ち溢れている感じではない(事実、妻の双葉が流産して子供を産めなくなったのを機に、夫の風もまた自ら子供をつくれない体にしたと双葉が語っている)。そんな風の人物像は、どこか刹那的で、虚無的な現代人の姿を集約しているともいえる。その彼が、後半になって追いつめられるところまで追いつめられ、突如として人間性に目覚める。そこにまた、痛烈な皮肉を感じてしまう。

市川崑が本作の舞台にテレビ業界を選んだのも、そこが制作当時もっとも現代的な場所だったからだろう。実際、市川はこのころテレビ局の機構というものに興味があり、《殺人的な時間の回転の中で、人間がどう呼吸しているかを描きたかった》という(市川崑・森遊机『市川崑の映画たち』ワイズ出版)。劇中にも、「メカニズムのなかで時間に追いかけられながら自分をフルに使って勝負するのが現代の生き方だと思いますけど」(岸田今日子)、あるいは「テレビはとくにね、仕事に切れ目がないから、クライマックスの連続だろ。ひとつの仕事が済んでも、吟味する時間が与えられないんだよ。これはつらい、ひどいことだよ」(永井智雄演じる編成局長のセリフ)などといったセリフが出てくる。風松吉のモデルも、日本テレビでテレビドラマを演出していた市川の担当プロデューサーがモデルになっているという。

なお、60年代初めのテレビ局が舞台とあって、本作には当時テレビで人気が出始めていたハナ肇とクレージーキャッツがワンシーンだけ登場し、コントめいたやりとりを披露している。調べたところ、この映画の公開が1961年5月、一方、クレージーが出演した国民的バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」が日本テレビで始まったのはその翌月らしい。青島幸男作詞による「スーダラ節」もこの年にリリースされている。当時まさにクレージーの人気は絶頂に達しようとしていたのだ。

市川崑はクレージーの大ファンで、「シャボン玉ホリデー」に先行してフジテレビで彼らが出演していた「おとなの漫画」も欠かさず見ていたらしい。クレージーの主演映画を撮りたいとも思っていたが、これは実現しなかった。ちなみに翌62年公開の「ニッポン無責任時代」をはじめとする多くのクレージー映画で監督を務めたのは、かつて市川の喜劇映画でチーフ助監督を務めた古澤憲吾である。

思えば、「黒い十人の女」の船越英二は、調子よく仕事をこなすところといい、女たらしなところといい、どこか「ニッポン無責任時代」の植木等と重なる。じつは植木の無責任男も、ノーテンキなまでに明るいとはいえ、青島幸男の歌詞をよく読めばわかるとおり(たとえば「そのうちなんとかなるだろう」とか)、本質的には刹那的で虚無的といえる。無責任男と風松吉はいわば、ネガとポジのような関係にあるのかもしれない。もし「黒い十人の女」で船越英二ではなく植木等が演じていたらどうなっていただろうかと、ふと妄想してしまう。

オリジナルとの違いに注目


今回のリメイク版では、主人公の風松吉をのぞけば、登場人物の名前はオリジナルとはすべて違う(数字にちなんだ名前でなくなったのが残念だが)。水野美紀演じる舞台女優、トリンドル玲奈演じる若手女優にそれぞれ映画版の岸恵子と中村玉緒(もしくは森山加代子)の役の片鱗を感じるとはいえ、設定も物語も大幅に変更されているようだ。

オフィシャルサイトの相関図では、松吉には映画と同じく妻がいることになっているが、それが誰なのかはあきらかにされていない。「あと十人。」と書かれているのも気になる。ひょっとして船越英一郎の現実の夫人が最後の最後で登場し、“棒のような兵器”で船越を懲らしめる展開になるとか……ないか。まあバカリズムのことだからきっと、そんな素人の浅はかな考えを吹っ飛ばすぐらい意表を突くものに仕立ててくれることでしょう!
(近藤正高)