箱根駅伝優勝を支えた駒澤大学のマネージャーからモノマネ芸人となったM高史(えむ たかし)さんに、箱根駅伝初優勝に貢献した西田隆維(にしだ たかゆき)さんがインタビュー。

ランニング・ウォーキングで“ケガをしない”ためのポイント6つ

アスリートとして活躍してきた西田隆維さんが歩むセカンドキャリアという視点から、アスリートを支えてきたマネージャーで今はモノマネ芸人という「M高史」さんが一体どう見えてくるのか。

-早速だけど、陸上競技を始めたきっかけは?

小学校の頃は野球をやっていたけど、持久走が速かったので、中学からは陸上部に入って長距離に取り組んでいました。中学・高校と競技成績はよくて都大会止まり。記録も5000mは16分台。

その頃は練習もよく分からず30km走や高校生なのにハーフマラソンに出場していました。今考えればメチャクチャなことやっていました。

在学していた世田谷学園は駒澤大学とつながりもあって、藤色のユニフォームにあこがれていました。藤田敦史さん・西田隆維さん活躍をTVで見て、駒沢大学で箱根駅伝を走りたいと漠然と考えるようになっていました。

-憧れていたなんていわれると照れるな(笑)一般入試で入って確か文学部社会学科だよね。なんでそこを選んだのかな?

歴史も好きだったのですが、自分の家庭での介護を見てきて、これからの時代は福祉だと思って、福祉学を専攻しました。

-じゃあ、これが現在に繋がる福祉の道への第一歩になったわけだ!

そうですね。世田谷学園が男子高校だったということもあって、福祉専攻は女子が多いという点も魅力的でした(笑)

-大学ではマネージャーとして頑張ってたんだよね。

そうなんです。憧れの駒澤大学陸上競技部に入部!と思ったのですが、最初の3カ月は入部が許されず、最初は同好会でトレーニング、夏前に認められ正式入部。ただあまりに力不足で合宿などには連れていってもらえず・・・。

チームは箱根駅伝3連覇中だったのですが、あるとき、大八木監督が入院してしまって、その入院先からの電話で「マネージャーやってくれないか」とオファーされました。選手として箱根駅伝を目指せなくなるという葛藤もありましたが、それよりもマネージャーの大変さを目の前で見てきているだけに、すぐにマネージャーをやるという覚悟ができなかった。でも、覚悟を決め2年生にあがる前にマネージャーに転向しました。

-マネージャーに転向して、よかったと思う?

よかったと思います。もし4年間、選手として続けていても、いてもいなくてもどうでもいい存在で終わってしまったと思う。でも、マネージャーとしてどれだけチームに役立てたかどうかわからないけど、マネージャーという仕事には自分のやるべきことが明確にありました。

-マネージャーで一番学んだことは?

マネージャーをやって学んだことは、チーム、そして大八木監督から「感じる心」ということ。人に言われてから行動するのではなく、自分で感じて行動するということですね。学生では体験できないこともたくさんありました。理不尽なこともあったけど・・・(笑)

-理不尽なことはどれぐらいあったの?

ほぼ9割です。でも残りの1割がすごく大切なんです!!大八木監督といえば、情熱的とか熱血って言葉がぴったりですが、西田さんが大八木監督のことで一番印象に残っていることは?

-大学4年の最後の箱根を走ったときかな。このときは、伴走車に乗っている大八木監督から、はっぱをかけられなかった。そして次の走者にタスキを渡した後、「今までご苦労さん!!」といわれたことがすごく印象的に覚えている(当時:9区区間新記録を樹立/チームは箱根駅伝初優勝)。内心「この後、びわ湖毎日マラソンがあるんだけど…」と思ったけどね。

※西田さんはこの「びわ湖毎日マラソン」をきっかけにマラソンデビューを果たし2001年の別府大分毎日マラソンで見事優勝。同年開催の世界陸上エドモントン大会のマラソン日本代表の座を射止めました。

-そろそろ本題に入ろうか。いつからエンターテイメントに目覚めたの?

大学卒業後は約5年間、障がい者施設(知的障害)の職員として勤務していました。ここで、とてつもなくピアノが上手い自閉症の男性と出会いました。演奏を聴いてすごいなって。この出会いが、今の僕のスタート地点になっていると思います。

そして、大学を卒業してからギターを始めていたので、演奏が好きな障害者とバンドを組んで、高齢者施設や小学校をまわって演奏するという活動をスタートしました。

-その頃が「M高史」の誕生?

障がい者と組んだバンド活動している頃、震災があって、人生に悔いなく生きたいと思うようなりました。そして、楽器がなくても、口だけで何かできるようにと考えてモノマネを。ちなみに最初のモノマネは今も続けているB’zの稲葉さん。

この頃、施設で喜怒哀楽の豊かな人が病気でほとんど表情がなくなってしまったことがありました。家族もとても寂しい様子でした。

僕らスタッフは医者じゃないですし、この人のため、この家族のために何ができるか分からなかったのですが、ある日、寝る前の「おやすみなさい」っていうときにモノマネをしたらケラケラ笑ってくれたんです。

「これを仕事にしたい!」と強く思った瞬間です。ちなみにそのときやったモノマネは「松山千春」(※すでに封印)

すぐにモノマネのオーディションにエントリーしました。見事合格(そっくり館キサラ)。2011年12月にモノマネ芸人としてスタートを切りました。

-芸人として活動を始めたわけだけど、再び走り出すきっかけって何だったのかな。

最後の箱根駅伝が終わって、マネージャー業も終わって、太ってきたし、ちょっと走ってみようかなとジョギングを開始しました。たまたま誘われて出た小さな駅伝大会を走って、走るって楽しいな!と改めて思いました。

障がい者施設で勤務しているときも通勤ランなどで、ランニングはずっと続けていました。大学卒業後に5000m15分台で走れるようになって、今まで何やってたんだって(笑)

-川内優輝選手のモノマネを始めたきっかけは?

川内優輝選手に似ていると周りにいわれることが多く、川内選手のモノマネを始めました。同じユニフォーム着るだけじゃなく、ランニングフォームやゴール後の倒れるシーンをモノマネして各地のマラソン大会にゲストランナーとして参加すること増えました。最初の頃は自分からマラソンの大会事務局に営業をかけていましたけどね。

-最初の頃は川内選手と同じレースに出て、大会がパニックしたことがあった(笑)って聞いたことがあるけど・・・。

騒がせてしまったこともありましたが、今は川内家とも親交があり、非公認だけど家族公認という立場でモノマネを続けさせていただいています。

-どんな芸人さんになりたいと思ってるの?

障がい者施設で働きながら、「音楽療法」を学びに大学に再び通っていました。障がい者と組むバンド活動も、自分たちが楽しんだり、周りを楽しませるだけじゃなくて、裏付けのある根拠をもって、意味のある活動したいと思うようになりました。これが、モノマネ体操につながっています。

最初の頃のゲストランナーとしての仕事は「モノマネショー」「参加者と走る」「参加者とハイタッチ」そして「準備体操」をお願いされることが多くなってきた。最初の頃は駒澤大学陸上競技部の準備体操をしていましたが、もっと何かできることがあるのではないかと考えていました。

-モノマネ体操は僕も見たことがあるよ。あの体操、体のいろいろなところを動かすようにできてるんだよね。

モノマネ体操のきっかけは、障がい者施設でのプログラムで平井堅さんのモノマネをしているときに「僧帽筋のストレッチになる!」と閃きました。どうせなら、モノマネを見たり、聞いたりしているだけではなく、音楽療法を取り入れたモノマネを。参加型のモノマネを作りたくて「モノマネ体操」を作りました。

笑いながら楽しく取り組めて、さらに効果のあるものになるようにというコンセプトで作っています。今後はモノマネを通じて社会にどう貢献できるかが、僕のミッションだと思っています。ミッション高史です。

ランニングがメジャーになって、たくさんの人が走っているのを見るとすごくうれしい気分になるんだけど、最近は自分の時間として走る楽しさに目覚めた。誰かと一緒に走る楽しさもあるけど、1人で走る楽しさも大切にしたいなあという思いが強いだけど、伝わるかなあ・・。

走ることを通じて、笑いと健康を届けたいというのが、僕の走る楽しさになっています。楽しさも、自分自身へ向けるベクトルというよりは、周りの人が楽しんだり、健康になってくれたらいいなというベクトルになっています。

今、代々木公園で早朝にラフィングラン(爆笑しながらランニング)を開催しています。子どもは平均400回、大人は平均13回というデータがあります。通勤に疲れ、仕事に追われ、家庭でもゆっくりできなかったら、いつ笑うの?って。

朝7時から笑いながら走ると、一日が気持ちよくなる。カリカリしているとミスが増えるけど、気持ちにゆとりがあると冷静に判断ができる。笑うことによる、もたらす効果って大きいと思っています。

今日が最後の日だったとしても悔いが残らないように「M高史」を出し切るにしています。その思いが強すぎてか先日、マラソン大会で転んで血だらけ。M高史が「医務たかし」に(笑)ただ、マラソン大会で力を出し切って倒れるとかそういう意味じゃないですよ。

最近、マラソン大会で熱中症や脱水症状で倒れたり、AEDが必要になるランナーが増えてて、それってどうなの?と思う一方、もしものための力も必要だと思うようになりました。

少なくともスポーツ・教育・福祉にかかわる人たちは、救命処置について勉強したり講習を受けておくべきだと思います。現場でパニックにならないように、その場で出来るベストがつくせるように、つくせる人が増えたらいいなと。

-なんか、M高史としてものすごく充実した楽しそうな毎日を送ってるね!でも、元アスリートの引退後の生活ってなかなか難しい選択をしなければならないときがあるよね。

周りをみていると、アスリートでの経験を活かして、ビジネスにつなげる人も多くいるけど、成功するのはごくわずかかなと感じます。成功の鍵は世の中のニーズに必要とされているか、合わせられるか、寄せていくことができるかどうかだと僕は考えます。

これまでの経験を活かしたいと思うことは間違っていないと思うのですが、「競技」という枠の中で自分自身と向き合うことが必要とされてきたアスリートは、ベクトルがなかなか外に向かないと思うのです。

自分はこうしたい!こうなりたい!という強い思いがあっても、世の中とのずれがあると上手くいかいことが多いのではないのかと思います。

-なるほど、そのアスリートでの経験をどう活かすかって事だよね。きっとアスリートにしかできない使命がきっとあるってことかな。

そうです。これまでの自分の経験を生かしたセカンドキャリアをスタートさせたいと思っているアスリートは、今の社会にどう貢献できるかがそれぞれの使命じゃないかなと思います。貢献できることに幸せを見いだせるか。やりたいことを貫くことも大切だけど、ニーズがないと現実的には厳しいのではないでしょうか。

現状のアスリートの世界って、保険(競技とは別の道)をかけて、競技に取り組むことに抵抗があったり、許されない風潮がなんとなくあるように思えます。

とにかく余計なことを考えず、今を一生懸命やる!って。

それが、悪いとは思わないし、そういう気持ちで取り組むことで見えてくることもたくさんあると思うのですが、競技が上手くいかなくなってきて、引退後、自分のできることがないって気づくアスリートが少なくないことも事実。

アスリートの生活を聞いていて、24時間をもっと有効に使えるのでないかと感じことがあります。現役中にセカンドキャリアを考えて行動することがあってもいいし、必要だと思います。

-海外のアスリートは引退後に向けて資格を取ったりしている人も多いよね。本当はそういうことをきちんと考えていかないといけないんだよなあ。

将来(セカンドキャリア)の組み立てを考えながら、今(現役アスリートとして)を一生懸命生きることはできると思います。「こんなことをやりたい。」と考えたことを、客観的に見ることができるか?ということです。

自分を低く見積もるのももったいないし、高い目標を持つことは大切だけど、評価基準を高くしすぎると、現状と理想のギャップがあると苦しくなってしまう。

アスリートとしての成功体験から、もしかしたら、次のキャリアで失敗することが恥ずかしいという想いも、上手くいかない要因になることもあるかもしれません。

アスリートって自分の感覚を大切にしている人が多いと思います。その感覚が優れているからアスリートとして成功していると思うのですが、感覚だけに頼ってしまうと上手くいかない要因になるのではないかと思います。

感覚に頼らない勉強、例えばビジネスの勉強は必要かなと思います。謙虚な姿勢でセカンドキャリアに臨むことが大切。色々な資格をとることもセカンドキャリアにつながると思います。

また、今後は指導者やチーム全体でセカンドキャリアを考えて取り組むことが必要とされてくると思います。例えば、ベガルタ仙台はチーム全員が英会話を勉強しているそうです。

英会話がどう活きてくるかどうかは分かりませんが、選手によっては海外に行くこともあるかもしれないし、少なくとも英語が喋れるようになれば、自分自身の可能性は広がると思います。

アスリート(現役)のときにセカンドキャリアについて考えて取り組むことが必要になってきたと思います。アスリート自身がそのことを真剣に考えることも必要ですし、周りが必要であることを教えてあげることも必要なのかもしれません。

-この後、何を目標に芸人を続けていくのかな?

僕が目指すのはアンパンマンです。「人生とは喜ばせごっこだ」というアンパンマンの作者やなせたかしの言葉を聞いたとき、まさにエンターテイナーだと思った。これだ!と思った。自分のやってきたことを社会にどう貢献するか。貢献できるかを考えるようになりました。見返りを求めるのではなく、喜んで欲しいという気持ちで今はM高史をやっています。

まずはモノマネ体操を多くの人に知ってもらいたい。健康は幸せに直結していると思うこともあるし、身体を動かすことと笑うことを伝えたい。モノマネ体操をそのツールとして使っていきたい。

そして、その先の目標として2020年の東京オリンピック・パラリンピックを盛り上げたい。具体的には複数の言語を使ってオモテナシできるように。

最近「ジャパササイズ(ジャパニーズカルチャーエクササイズ)」というのを考えました。日本の文化を国内・海外に発信しながら、エクササイズとしても使える意味のあるものを。東京オリンピック・パラリンピックに向けて海外の人に興味をもってもらえたらいいなと思っています。

そして東京パラリンピックのマラソンの伴走もしたい。複数の言語が使えるようになれば、大会直前や当日に、急きょ海外のパラ選手の伴走をすることができる。ダイレクトに選手のサポートをしたり、障害者スポーツや文化を盛り上げていくために、悔いが残らないようにM高史を出し切ります。

-最後に聞くけど、川内選手が引退したらどうするの?

実は最近、川内選手に寄せてないんじゃないかとまわりから言われます(笑)
※川内選手は最近、緑と黒のユニフォームを着用。

ですが、ものまねさせていただけるのはありがたいことですのでニーズがあるうちは、このユニフォームで「モノマネ体操」など活動しています。実はあのユニフォームのロゴよく見てもらうと埼玉県庁ではなく「埼王県庁」なんです(笑)

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インタビュー終わって(吉澤)
同じ駒沢大学出身・同じ陸上競技部出身で、マネージャーと選手と立場は違うけど、同じ箱根駅伝優勝を目指していた2人。そして、各地のマラソン大会で一緒に活動することも多く仲の良い2人。アスリートのセカンドキャリアとして、ともに別の道を進んでいるものの、二人とも、目的・目標を明確に持って前向きに進んでいたことが印象的であった。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた活動、そしてその先に二人がどんな活動をしていくのか、社会にどう貢献していくのか、二人にしかできない活動が楽しみである。インタビュー開始前に「宇宙」をテーマにトーク。「宇宙規模でみれば謙虚になれる」という話はまた別の機会に。

■インタビュー:M高史(えむ たかし)
モノマネ芸人
オフィシャルブログ:M高史の日々精進!

■インタビュアー:西田隆維(にしだ たかゆき)
駒沢大学出身→S&B食品
箱根駅伝で駒沢大学を初優勝に貢献(当時9区区間新記録樹立)
エドモントン世界陸上 マラソン日本代表
現在は市民ランナー向けのランニングクラブNRC(NISHIDA RUNNING CLUB)の指導とマラソン大会などの企画・運営を中心に活動中。また、これまでの経験で学んだことを企業や学校で講演。