サザンオールスターズの桑田佳祐がこの2月26日で還暦を迎えた。これにあわせてスペシャルサイトも開設されている。


桑田佳祐と長門裕之がそっくりなのは必然だった?


桑田佳祐が生まれ育ったのは、彼の曲にも何度となく登場している神奈川県茅ヶ崎市だ。茅ヶ崎は、三浦半島の付け根の西側にあたる葉山・逗子・鎌倉から西へ小田原にいたる相模湾の沿岸地域、いわゆる湘南に属する。この地域は明治時代に東海道線が開通して以来、温暖な気候から東京・横浜の人たちの別荘地・療養地・海水浴場、また住宅地として開発されてきた。

桑田の生まれる前月、1956年1月にはその湘南を舞台とした一編の小説が芥川賞を受賞している。当時23歳の一橋大学の学生だった石原慎太郎の『太陽の季節』だ。そこに登場する若者たちが自動車やヨットを乗り回し、異性と奔放な関係を結ぶさまは、当時の日本人に大きな衝撃を与えた。「太陽族」なる言葉も派生し、この年5月の『太陽の季節』が映画化(古川卓巳監督)されたこともあいまって、青少年への影響(とくに悪い面での)が取り沙汰される。この映画で慎太郎の弟・裕次郎が俳優デビューしたことはよく知られる。もっとも、主演は彼ではなく、長門裕之だった。

その長門と桑田は似ているとかねがね言われてきた。演出家の久世光彦など、長門と桑田による父子ヤクザのホームドラマを企画したことがあるらしい(久世光彦・森繁久彌『今さらながら 大遺言書』新潮社)。もっとも、桑田自身に言わせると、小学生のころ自分では草刈正雄に似ていると思っていたのに、学校で長門裕之に似ていると言われて、子供心にかなり傷ついたという(『素敵な夢を叶えましょう』角川書店)。

桑田佳祐が長門裕之に似ているのはもちろん偶然にすぎない。だが、桑田が太陽族とほぼ同時に生まれたことを思えば、両者が似ているのは必然だった気さえしてくる。ここからは、太陽族とそれを生んだ湘南という地域の歩みを振り返りながら、桑田のバックボーンを探ってみたい。

特殊な存在だった「太陽族」


戦後70年のあいだに、さまざまな「族」が現れては消えていった。その元祖は終戦直後の「斜陽族」だといわれる。これは終戦直後の華族制度廃止や農地改革などによって没落していった上流階級を指したもので、太宰治が1947年に発表した小説『斜陽』に由来する。ただし流行したのは翌年に太宰が亡くなってからだった。

太陽族というネーミングは、この斜陽族と対になっているような気がしてならない。文字通り沈んでいった斜陽族=旧来の上流階級と、それと入れ替わるように昇ってきた太陽族=新興の上流階級、というのが私の見立てである。

実際、太陽族は当初、特殊な若者の世相と考えられていたようだ。たとえば、「朝日新聞」1956年5月15日付の「声」欄には、《最近、われわれ青年にとって不愉快なことがある。それは、いわゆる太陽族と呼ばれる有閑階級の不良少年どもが、大手を振って横行していることに対して、世間は無関心どころか多分に迎合的であることだ》と書き出された学生の投稿が掲載されている。どうも太陽族とは「金持ちのドラ息子」というのが、このころの世間での見方だったらしい。

なお、太陽族の語が初めて活字になったのは、先の「朝日新聞」記事の出る少し前、「週刊東京」1956年5月5日号に掲載された「“太陽族”の健康診断」と題する記事だとされる。そこでは、石原慎太郎とともに当時23歳の新進作家・藤島泰輔が評論家の大宅壮一からインタビューを受けていた。藤島もまた、上流階級の子弟が多く通う学習院の出身で、同窓生だった皇太子(現・天皇)の周辺を描いた小説『孤独の人』で世に出た。余談ながら、現在のジャニーズ事務所副社長の藤島ジュリー景子は、彼の実娘である。

なお、大宅壮一は「太陽族」の名づけ親ともいわれるが、それもこの週刊誌の記事を踏まえてのことだろう。ただし、記事中《「太陽の季節」は、すでに喫茶店の名前にまでなっているし、“太陽青年”とか“太陽族”とかいう新語まで生れている》と大宅がまるで他人事のように言っているのを読むと、命名者は彼ではないような気がするのだが。

有閑階級から普通の不良へ 太陽族の“転落”


映画「太陽の季節」が公開されたのは、「週刊東京」「朝日新聞」の前出記事が出た直後、1956年5月17日のことだった。じつはこの映画公開を境に太陽族のイメージは大きく変わっていった、と大矢悠三子「湘南海岸をかけめぐった東京――「太陽の季節」から「若大将」へ」(老川慶喜編著『東京オリンピックの社会経済史』日本経済評論社)は指摘する。「太陽の季節」以降、石原裕次郎主演の「狂った果実」(石原慎太郎原作・脚本、中平康監督)など「太陽族映画」と呼ばれる映画があいついで公開され、その悪影響を懸念して生徒が見るのを禁止する学校や自治体も現れた。

同年7月20日付の「朝日新聞」社会面には、「映画“狂った果実”みて 「退学」勧告される 前橋で女子高校生二人」「青少年の入場禁止 兵庫県で「狂った果実」」といった記事と並んで「強盗・傷害・盗み・ゆすり “太陽族”八十一人を補導」という見出しが躍っている。そこには《このグループは地下鉄池袋駅の伝言板で連絡をとり、終夜喫茶などをたまり場にして遊び回り金に困れば強盗、脅し、盗みを働くといった“太陽族”だった》とある。

ここで太陽族と呼ばれているのは、もはや上流階級ではない、単なる不良グループだ。太陽族の本場・湘南にも、石原慎太郎の髪型を真似た「慎太郎刈り」にマンボズボンにアロハシャツという出で立ちの若者が集まり、粗暴事件も増加する。『太陽の季節』の芥川賞受賞からわずか半年で、太陽族の呼称は中低層の若者にまで波及した。太陽族はいわば“転落”することで流行したのだ。しかしブームが去るのは早く、1956年末には太陽族という言葉は消えていった。太陽族映画への規制が強まったこともその一因とされる。

現実の風景だった「砂まじりの茅ヶ崎」


太陽族の去った湘南はその後、明るく健康的な観光地域へとイメージを転換していく。1964年の東京オリンピックで葉山海岸と江の島がヨット競技会場となったのは象徴的なできごとだった。これと前後して石原兄弟に代わる新たなスターも輩出される。1961年に第1作が公開された「若大将シリーズ」で主演した加山雄三だ。

オリンピックの翌年、1965年にはパシフィック・パーク茅ヶ崎がオープンする。海に面したこのホテルは、サザンオールスターズの「HOTEL PACIFIC」(2000年)にも歌われる。プール、ボウリング場、レストランなどを備え、加山雄三やグループサウンズのバンドのメンバーなど人気の芸能人もよく来ていたという。地元では「パーク」と呼ばれ、ある意味、テーマパーク的な存在であったようだ。

パークの経営者は加山雄三の叔父で、加山自身も父で俳優の上原謙とともに経営に参加していた。桑田の父親は上原と親しく、その関係でホテル内にビリヤードと麻雀の店を出している。もともと映画館で働いていた桑田の父は、独立して茅ヶ崎駅近くのバーを手始めに割烹やライブハウス、レストランと神奈川県内に店舗を広げていた。桑田の4つ上の姉・えり子(結婚後の姓は岩本)も高校時代に父に誘われてパーク内の店でバイトしていたという。そのパークは1970年に倒産、加山も莫大な負債を抱え、しばらく不遇時代を経験している。

ところで岩本えり子の著書『エリー(C) 茅ヶ崎の海が好き。』(講談社)によれば、《茅ヶ崎というところはもともと砂まじりの土地》であった。海岸の砂浜から海風に乗って砂が家のなかにまで入り込んできた。学校では、砂塵がひどすぎて授業や部活が中止になったこともあったという。サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」(1978年)はその歌詞が奇抜だと話題を呼んだ。しかし、その歌い出しの「砂まじりの茅ヶ崎」は桑田にしてみれば比喩でも何でもなく、現実の風景そのものだったのだ。


桑田佳祐、故郷を「殺風景」と詠む


ビートルズの熱狂的なファンだった姉・えり子から、桑田は大きな影響を受けた。「いとしのエリー」(1979年)など桑田の曲にたびたび登場する「エリー」「エリコ」とは彼女にちなんでいるとの説は、ファンにはつとに知られる。その姉は、19歳で結婚するとまもなく渡米して以来、長らくアメリカに居住した。

1996年、えり子は26年ぶりに茅ヶ崎に帰った。やがて彼女は地域の景観を守るための市民活動に取り組むようになる。2005年には「茅ヶ崎・浜景観づくり推進会議(はまけい)」という会を立ち上げた。それからまもなくして、茅ヶ崎のサザンビーチのすぐ近くに高層マンション建設の話が持ち上がる。マンションが建てば海岸から富士山がさえぎられることがわかり、えり子たちは中止を求めて署名集めに奔走する。この甲斐あって計画は白紙に戻されるにいたった。

姉がはまけいを結成したとき、桑田佳祐が寄せた短歌がある。それは《茅ヶ崎を 小粋に魅せし 殺風景 海辺(うみ)であったり 街並(まち)であったり》という一首だった。自分が子供のころに遊んだ風景を、「殺風景」と反語的に詠んでみせたのがいかにも桑田らしい。

『太陽の季節』以来、メディアを通じて全国にイメージが広まった湘南だが、「殺風景」といい「砂まじりの茅ヶ崎」といい、桑田が故郷を表現した言葉には、地元に育った人間にしか描きえない、素の風景が凝縮されている。いまでこそ日本のロックで、アーティストが自分の地元を具体的な地名をもって歌うことは珍しくない。その先駆けこそ桑田佳祐ではなかったか。彼のバックボーンを調べてみて、あらためてそう強く感じた。
(近藤正高)