2020年のニューリーダーたちに告ぐ

東京カレンダーの『SPECIAL TALK』初の女性ゲストは、働く女性の声を代弁するだけでなく、自らアイコンとなって世界を飛び回り、活躍する佐々木かをり氏。

大学卒業後に起業し、1996年からは日本最大級の女性のビジネス会議「国際女性ビジネス会議」を主宰。
現在、株式会社イー・ウーマン代表のほか、何役もの公職を歴任し、上場企業の取締役も務める。

女性が活躍する社会を切り開いてきた佐々木氏のバックボーン、そして未来への提言とは?
対談者は、フューチャーアーキテクト代表取締役会長の金丸恭文氏。

次世代のニューリーダーたる東京GENTSが、多様性を求められる社会を勝ち抜くためのヒントがここに。

金丸:本日はお越しいただき、ありがとうございます。佐々木さんといえば語学が堪能というイメージがありますが、いつ頃から語学に興味を持たれたのでしょうか? 佐々木さんは、確か横浜のお生まれでしたよね。

佐々木:横浜で生まれて横浜で育ちました。母の妹がアメリカ人と結婚し、一時期日本に住んでいたので、英語しか話さない従兄弟との出会いが、私の英語との最初の関わりでした。また、わが家の裏にはイタリア人が住んでいたりもしました。日本語が流暢な方々ではありましたが。

金丸:土地柄インターナショナルな環境だったのですね。佐々木さんは優等生なイメージがとても強いですが、小さい頃から優等生だったのでしょうか?

佐々木:とんでもありません。人生の中で一度も優等生だったことはありませんよ。

金丸:それは意外ですね。

佐々木:でも、似たようなことを言われたことがあります。わが家は裕福ではなかったので、高校1年でアルバイトを始めてからは、経済的に親の支援を一切受けていないんです。大学の入学金も授業料も自分で払いました。大学4年のとき、育英会の奨学金制度が導入され、面接を受けたのですが、私の親の収入だと、通常枠より低い特別枠の申請だったのです。

しかし、面接官から「あなたを見ていると、書類に書かれているような貧しさを全然感じない」と言われまして(笑)。よく見ると、面接に来ている他の学生は下駄を履いて、ボロボロのTシャツを着て奨学金をもらいに来ているのに、私はきちんとした身なりだったんです。実は500円の布で縫ったスカートだったのですが、とてもオシャレだったんです。これはしまった、と思いました(笑)。

金丸:悲壮感がなかったんですね。

佐々木:はい。ところが、君はとてもいいと評価していただき、特別支援枠の奨学金をいただくことができました。

金丸:ご自身としては、経済的に恵まれてないということを、どのように捉えていたのでしょうか?

佐々木:これがまたとぼけていて、恵まれていなかったということを最近知った、という状態です。

金丸:それは大変興味深いですね。なぜそう感じられたのでしょうか?お父様は実業家でいらしたのですか?

佐々木:日本にまだドライクリーニングがないときにお店を開いて、大変繁盛していたのですが、株の取引で今の金額で何億円も失い、買った土地もお店も手放しました。小学校5年、6年ぐらいだったと記憶しています。突如一軒家から家賃5000円の住宅供給公社のアパートで暮らすようになったのです。

が、私の両親の素晴らしいところは、私にそういうことを決して暗く感じさせなかったこと。だから、一軒家からアパートに引っ越したのに何も悲しさはなくて、1ヵ月ぐらい経ってから、「あれ、私のピアノは?」と思ったぐらいです(笑)。そもそも貧しいと思っていなかったので、苦しくはなかったですね。

他の人と同じであることを望まなかった学生時代

他の人と同じであることを望まなかった学生時代

金丸:佐々木さんは、どんな高校生だったのでしょうか?

佐々木:ユニークだったと思います。中学からの話になりますが、私が通っていた横浜国立大学附属横浜中学校は、卒業すると同じ敷地内にあった県立高校に進むのが一般的でした。いずれ、附属高校になる予定だったようですが、私たちの学年のひとつ前でその高校が移転してしまい、どこの高校を選ぶかを考えなくてはならなくなったのです。

そのとき「みんなと違う道を歩きたい」と思って、珍しい高校を探しました。当時、公立高校で、普通科でも職業科でもなく、日本で唯一「外国語科」だった神奈川県立外語短期大学付属高等学校(現・神奈川県立横浜国際高等学校)を見つけ、興味を持ったのです。英語教育が豊かで、第2外国語としてフランス語かスペイン語を学びます。

そして、校則がない、制服がない、上履きがない、時計がない、ベルがならない、というところにも惹かれて(笑)。外国人の先生もいっぱいいる学校でした。

金丸:横浜ならではの自由な学校ですね。

佐々木:はい、あまりに特殊なので、全県学区といって、神奈川県民なら誰でも応募できる学校でした。ですから語学に長けたすごく優秀な人が県内中から集まっていました。入学時に英検一級を持っている人も多かったですからね。そんな学校ですから、私の英語の成績はいつも平均以下。ビリから2番目のこともありました。英語の先生に「佐々木さんはさすがだねえ。絶対ビリにならないんだから」なんて嫌みを言われたり(笑)。

その後、大学受験の頃は、大学に興味を持てませんでした。アルバイトで貯めた自分のお金で進学するのに、行きたい大学がないと思っていました。日本の大学生は遊んでいるイメージしかなかったのです。でも、そんなとき、上智大学の外国語学部に比較文化学科が誕生し、英語だけで授業が行われ、アメリカの大学のように厳しい環境で勉強できると聞きました。それも、一般の大学受験をせず、TOEFLとSATとエッセイ、面接といったアメリカの大学入試と同じ受験方法で入学審査が行われると。「これだ」と思ったんです。みんなと違う道を見つけたと。

金丸:何か、高校進学と似たものを感じますね。その頃はどのようなアルバイトをされていたのでしょうか?

佐々木:高校1年生のときに、コンサート会場でコンサート案内チラシを配るアルバイトから始めました。その後、会場内でプログラムなどの販売を手伝ったり、楽屋でミュージシャンのサポートをしたり。ほかにも、日英での会場アナウンス、あとは、夏の野外コンサートの事務局の仕事などをやっていました。結局9年間、ずっと同じ会社にお世話になりました。

金丸:普通は女子学生がアルバイトをやるとなると、ファミレスや喫茶店、レストランになりがちです。

佐々木:そうですね。でも、お店での立ち仕事や、シフトに組まれる仕事は学生には合わないと思ったのです。試験のときに困るかな、と。そこで、自分で電話帳をめくって、音楽関係の会社を探し、電話して、アルバイトをみつけたんです。

金丸:お話を伺っていると、佐々木さんのもとには、いつも突然変化が訪れているように感じます。そして、変化を受け入れ、すぐに行動を始めている。その行動を始めるときの思考が、とてもシンプルで正しいと思うんですよね。

佐々木:正しいかはわかりませんが、確かにとてもシンプルですね。そのとき与えてもらったもの、目の前のことに、いつも全力で取り組んでいました。私の人生は、今もそうです。

金丸:しかも、他の人と同じであることを望まない。むしろ、違うことを好むわけです。

親戚に借金をして海外留学へ

親戚に借金をして海外留学へ

金丸:その後、アメリカに留学されました。はじめての海外が、いきなり留学だったのでしょうか?

佐々木:はい、海外旅行さえしたことがありませんでした。自分の経済事情を考えても、海外留学は難しいだろうと思っていました。ですから、通っていた語学学校の掲示板で「アメリカの大学への奨学生をひとり募集する。大学の単位取得可」という案内を見たとき、これが人生において最初で最後の海外留学のチャンスだろうと思って応募したのです。

ところが、面接を受けるとき、奨学金は授業料だけで、旅費と生活費は自費だということに気付いて、経済的な理由から辞退しようとしたんです。そんなこともあり、結果発表も見に行きませんでした。そうしたら、「あなたに決まったのに、どうして手続きに来ないの?」と、学校から怒られてしまって。

「お金がかかるって知らなかったんです。留学できないかもしれません」と伝えたら、「一週間あげるから親と相談しなさい!」と。両親に相談したところ、「難しい」とのこと。その代わり、叔母に話してくれて、結局叔母から借金をして行くことになりました。もちろん、帰国後に働いて、叔母に返しました。

金丸:留学されたニューヨーク州のエルマイラ大学は、どのような大学だったのでしょうか?

佐々木:アメリカで最初の女子の4年制大学で、設立に作家のマーク・トウェインが関わったという、とても由緒ある、歴史のある大学でした。ちなみに、2008年、創立150回目の卒業式にてコメンスメント・スピーカー(式辞)を務めさせていただき、なんと名誉博士号の称号もいただきました。

金丸:それは素晴らしいですね。

偶然の出来事から翻訳の世界へ

金丸:大学生活を終えていよいよ社会人になるわけですが、最初から通訳の仕事に就かれたのですか?

佐々木:大学時代は、無遅刻無欠席で厳しい少人数授業に臨み、授業料や生活費のためのアルバイトに集中した生活だったので、学校に就職課があることすら知りませんでした。おかしいですよね(笑)。ただ、アルバイトをしていた会社からお誘いをいただき、卒業後一時、正社員として働いていました。

金丸:英語を使ったキャリアはそこからでしょうか?

佐々木:いえ、その少し前でした。仕事でお世話になった方から、ある週末「今すぐ品川プリンスに来て通訳をしてくれ。上智に通っているんだからできるだろ!」と言われて。すると、なんとドゥービー・ブラザーズの通訳だったのです。

金丸:え!? 僕は学生時代、コピーバンドをやっていたのでドゥービー・ブラザーズとイーグルスを追いかけて、ロスまで行ったことがあるんですよ(笑)。サインとか写真は持ってないんですか?

佐々木:持っていません(笑)。そういったところが雇う側としても良かったのかもしれませんね。いちいち「写真撮ってください」という通訳者だったら仕事できませんから。ドゥービー・ブラザーズの仕事はラジオ番組のインタビューだったのですが、通訳料として1万円をいただいたんです。当時私のアルバイトの時給が400円ですから、世の中にはこんな仕事があるのかと思い驚きました。

その後も、通訳の仕事をいただいたので、当時来日した有名アーティストには、何人もお会いしていると思います。この経験もあり、通訳や翻訳を行う株式会社ユニカルインターナショナルを設立しました。

次回は佐々木氏が重要視している"考え方の多様性"に迫る! 9月10日(木)配信予定

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