無秩序な日本の街並み(Photo by mrhayata via Flickr)

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 日本と海外の先進国を巡回していると気がつく違いに「景観の違い」というのがあります。

 我が母国日本はネトウヨ諸氏と安倍政権に言わせると「美しい国」なんだそうであります。

 膨大な数の被災者が仮設住宅に住んでいたり、原発作業員の日当が大量に中抜きされていたり、年金や介護報酬は減らされるが天下り団体では一日中鼻クソを掘っている元役人が高給をもらっていたり、線路に迷いこんでひき殺された認知症老人の家族に莫大な賠償金が請求されたり、サラリーマンの大半は長時間働き2週間の休暇なんて一生とれず、テロの被害者家族が罵倒されるのが当たり前、という状況が蔓延するのが彼らのいう「美しい国」らしいのですが、少なくとも景観に関しては、我が母国を「美しい」と褒める外国人はそれほど多くはないのは事実であります。

「アジア的猥雑さ」というのは言い訳にすぎない

 ほとんどの人は日本に空路で入国します。空港の入国管理を抜けてエレベーターに乗ろうとすると、まず目に入ってくるのが、一体どこに行ったら良いのか不明な注意書きや看板です。

 そのまま出口に進んで電車に乗ろうと思うと、説明が大量に書かれた券売機があり、やっとの思いで電車に乗ると、車内にはお墓の宣伝から男性器の大きさに関する週刊誌の特集まで、多種多様な広告が、まるでクラッカーが爆発した様な状態でぶら下がっているのです。

 先進国からやって来た多くの外国人は、もうここで、目に入ってくる情報量の多さや、100種類ぐらいの絵の具がひっくり返された様な色彩の洪水とグチャグチャなフォントの反乱で、頭が一杯になり、疲弊して財布の一つでも落としてしまうのです。

 電車に乗って都市部が近くなるに従って目に飛び込んでくるのは、町中を無造作に走り回る電線、電柱、風俗の看板、グチャグチャな色合いの上無国籍デザインの安っぽい家、路上にむき出しでおかれているゴミ捨て場、駅前に大量に止められたゴミの様な自転車、狭い公園、緑のない都市部、高さがグチャグチャのビル、狭い道路、ギラギラと光るコンビニの電気であります。

 その風景は、他の先進国とは何かが根本的に異なる雑多さとカオスと無整理と混沌と猥雑さに溢れていて、我が母国に始めてやって来た人々は、映画『ブレードランナー』や『ロストイントランスレーション』なんて作り事に過ぎなかったのだ、という衝撃を受けて、しばし言葉を失うのです。

 日本の人々はそういう、美しいとは言えない混沌と混乱の中を、もの凄い早さで歩き回り、殺人的な混雑の中で他人を押しのけて、電車の中のほんの少しの空間を活用してスマホでエロ漫画を楽しみ、小さな座席に腰掛けて、高くなって行く物価と減って行く年金に目をつぶって、日々暮らしているのです。

 この決して美しいとは言えない混沌と混雑は、しかしながら、アジア的な猥雑さの魅力とか日本独自の面白さとは言いがたく、日々の生活を送る上ではストレスの元凶に過ぎません。

 しかし、それを指摘することは、自分の履いているパンツの柄が酷いとか、自分の親が不細工だと認める様なものなので、なんとなく自覚はしていても、多くの人は、それが良いとか悪いとかは考えない様にしているのです。

 アジア的な猥雑さの魅力とか日本独自の面白さという言い訳は、自分一人ではどうにもならないことと、無関心への理由付けにすぎず、海の向こうからやって来た人々は、そういう苦しい言い訳に冷たい視線を送りつつ、本音は言わないのです。まして彼らが日本で稼いでいるのであれば、それは当然のことなのであります。

 一方で、海の向こうからやってくる人々は、そういう日本人達が嫌み嫌う風景に感嘆し、いかに感動したかということを、自分の母国の人々に淡々と語っていたりするのです。

 それは都心から電車で一時間ぐらい行った場所にある工業団地の近くに広がる碧々とした田んぼであり、そこで雑草を抜いている農家の老婆が歩く姿であり、軒先にトラクターが止まった農家の屋根瓦であり、小道にたたずんでいる地蔵の赤い前掛けなのです。

日本は田舎に行くほど規則性に継続性がある

 そういう風景に感嘆する彼らは、さらに奥へ奥へと行くのです。しかし奥へ行けば行くほど日本人の姿は見えず、目に入ってくるのは老人や山に返って行くカラスだけなのです。

 そういう場所ではコンビニエンスストアの姿も、ジンジャー色の頭をした若者の姿も、ヒョウ柄の内装を施した軽ワゴンの姿すらまばらです。田んぼの合間には所々大きな屋敷が建っていますが、その殆どは伝統家屋です。その規則性やシンプルなデザインは、田んぼの規則性と同居し、穏やかに調和しています。そこにはアジア的な猥雑さも、日本独自の混沌とかいうものも無縁です。そこにあるのは調和であり、規則性であり、成熟であり、継続性です。

「美しい国」とがなり立てる人々は、なぜかそういう規則性や成熟や継続性とは無縁の生活を送っています。グチャグチャでゴミの様な家と看板が立ちならぶ町中で、気が狂った様な配色のパッケージに包まれた菓子パンを齧りながら、「ゴキブリ〇〇人」と叫びながら老人を殴打しているのです。

 酷い町並みの景観をさらに悪化させる様な行動をとる人々が「美しさ」をがなり立てるのは、なんと滑稽な光景でしょうか。

 その猥雑な町並みの中で日々暮らす人々は、ゴミの様な景観にも、「美しい国」をがなり立てる人々にも、無関心であり、電車の中でもエレベーターの中でも、ただ下を向いて、隣の人に笑いかけることもなく、スマホの画面を凝視しているのです。そのゴミの様な景観の街は、どこも段差だらけで、通路も交通機関も狭く、乳母車を引いた彼らの妻や、足腰が弱った親達は自由に動き回ることはできないのです。

外国人差別の野放しと景観問題は繋がっている

「美しい国」で現在進行していることと「美しい国」とがなり立てる人々の矛盾、ゴミの様な景観、乳母車や老人が動き回れないことは、一見関係ない様に思えるのですが、その根底は繋がっています。

 規則性や継続性や成熟を体現する景観には、その風景の中に身を置く人達が、自分の一時的な欲望は犠牲にして、その空間を共有する人々の総体的な幸せを考慮しなければならない自制心が必要になります。

 日本の外の先進国の大都市の景観、特に西欧州は、ある程度規則性があり成熟を重視します。それを維持するためには日本では考えられない様な規制があり、その規制は地域の人も一緒になって作り上げます。様々な人の意見を反映するので一時的なワガママや利己的な要求は我慢しなければなりません。

 そういう自制心や成熟は、景観だけではなく弱者に配慮した街作りにも関係し、社会保障や差別禁止の規制の下地にもなるのです。

 日本のゴミの様な街の景観、ゴミの中で外国人排斥を叫ぶ人々が野放しなっていること、年金は削減するが天下りは辞めないこと、老人も乳母車も自由に動けない街は、すなわち、未成熟な日本の人々のワガママの集積です。この島の人々は、体は老成していても、心はまるでワガママな12歳の少年の様な人ばかりなのです。

 伝統家屋や田んぼが広がる風景は不便です。しかし不便は継続性と成熟の裏返しなのです。かつての日本にはそれを理解する人が大勢いましたが、「美しい国」と連呼する割には自国産のものを買わない人々ばかりの今の日本には皆無に近いのです。

著者プロフィール

コンサルタント兼著述家

May_Roma

神奈川県生まれ。コンサルタント兼著述家。公認システム監査人(CISA) 。米国大学院で情報管理学修士、国際関係論修士取得後、ITベンチャー、コンサルティングファーム、国連専門機関、外資系金融会社を経てロンドン在住。日米伊英在住経験。ツイッター@May_Romaでの舌鋒鋭いつぶやきにファン多数。著作に『ノマドと社畜』(朝日出版社)、『日本が世界一貧しい国である件について』(祥伝社)など。最新刊『添削! 日本人英語 ―世界で通用する英文スタイルへ』(朝日出版社)好評発売中!

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