早くも連載打ち切りとなった理由とは?

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 週刊少年ジャンプ8〜10号にて『ジュウドウズ』『ハイファイクラスタ』『Sporting Salt』が続けて打ち切りとなりました。

 頑張ってはいたけれど何かが一味足りなかった『ジュウドウズ』、凡百の能力バトル物の域を超えれなかった『ハイファイクラスタ』に比べ、スポーツ医学漫画という新機軸に挑みつつも短命に終わった『Sporting Salt』の失敗からは学ぶべきものがあると考えます。

「なんとなく感動的」の濫用

 この作品には幾つもの問題点がありましたが、今回注目したいのは、この作品が「なんとなく感動的な物語を描いていた」ことです。

 感動的な物語、の前に「なんとなく」が付いているのが今回のポイント。『Sporting Salt』は高校生ながらも「医学に関する許可証」を特例で得ている主人公の塩谷浩之が、招聘されたスポーツ名門校、立花港高校にてスポーツドクターとして通学し、学内のスポーツマンの悩みを医学的に解決する、というコンセプトの作品です(後半からはスポーツ医学はほとんど関係なくなりましたが)。そんなスポーティングソルトの17話あらすじを見てみましょう。

「フィギュアスケートの有力選手であった東郷白雪だが、最近はフィギュアから離れ、不良たちと遊ぶようになっていた。スキージャンプ選手であった母親は娘の現状を心配し、主人公たちに解決を依頼する。白雪がフィギュアから離れたのは、マスコミから『お前の母親はお前を身籠ったために五輪に出場できなかった』と聞かされて自責の念を覚え、『自分を身籠ったせいで母親が夢を諦めたのに自分が夢を目指すなんて変』と考えたからであった。塩谷は長野五輪決勝の場である白馬ジャンプ競技場へと白雪を誘う。塩谷は17年前、当時の競技場で身籠った白雪の母がきっと五輪を観戦していただろう、と述べる。すると、白雪の耳に突然に当時の歓声が聞こえ、『自分は母と同じ夢を見ていたのだ』と感じて号泣する。フィギュアの道に戻る白雪。母は懐妊当時、『この子がスポーツしなくてもそれはそれでいいの。この子が笑って生きていてくれたら』との思いを述べていた」

 さて、お気付きと思いますが、「問題の提示」→「解決」に至る流れがなんか変なんですね。解決すべき問題は「自分を懐胎したせいで五輪出場を諦めた母に対する白雪の自責の念」ですが(そもそもこのような自責の念を抱くこと自体が感情移入しにくい)、それを長野五輪の会場に連れて行くことで解決しているわけです。

 主人公が「あなたのお母さんも多分ここにいたんだろう」と推測を述べると(あやふやな推測)、白雪の耳に突然当時の歓声が聞こえ(異常現象)、それでなぜか「自分が母と同じ夢を見ていた」と自覚し、自責の念が解消されるのです。あやふやな推測を述べられると異常現象が起こり、なぜか解決する。「同じ夢を見ていた」も分かるようで何だか全然分からない(母の胎内でジャンプ競技を見ていたから、今もスポーツでの成功を母子共々願っている??)。

 しかし、あらすじを文章で読むと非常に荒唐無稽ですが、そこはさすが漫画の力というやつで、絵が付いて演出が伴うと、パッと見では「なんとなく感動的な話」に見えてしまいます。ですがこれこそが本作の難点であり、同時に短期終了した『ジュウドウズ』『ハイファイクラスタ』と比べても目立って否定的意見が寄せられている原因ではないかと考察します。

 われわれは長い消費生活の中で、一種の感動類型のようなものをそれぞれが心の中に作り上げています。こういう物語を描かれると感動する、こういう演出をされると感動する、と言ったものです。ある種の類型を目の前に提示されると、われわれはパブロフの犬の如くなんとなく感動を覚えてしまう。

 しかし、この条件反射的な心の動きには同時に何かしら引っかかるものも感じてしまう。素晴らしい物語に触れて感動するのは良いことのはずなのに、別に素晴らしくもない物語でもその類型に出会えばわれわれの心はなんとなく感動しそうになるのです。そして、その時はその気持ちを何とか否定したくなってしまう。だってこれ、ある程度まで条件反射ですからね。素晴らしくもない物語に心を操られそうになるのはたまらんわけですよ。

『Sporting Salt』にも「なんとなく感動的なシーン」はたくさん出てきます。そして、それを否定したくなった時、「否定できる根拠」が作中に山のように存在します。上の17話あらすじが顕著ですが、「自分が母と同じ夢を見ていた」と感じて号泣するシーン自体は「なんとなく感動的」ながらも、そこに至った過程が「あやふやな推測」と「異常現象」ですから、なんとなく感動させられそうになったわれわれは防衛機構を働かせるが如くに、「こんなので感動なんてしないよ!」と強く反発を覚えるのではないでしょうか。

『Sporting Salt』に限らず、「なんとなく感動的」な作品はその不備を発見された時には強く反発を受けるものだと思います。『水からの伝言』などもそうですね(水に「ありがとう」と言葉をかけると水の結晶が美しくなり、「ばかやろう」などの言葉をかけると結晶が汚くなる……という内容で、ロマンはあるけど明らかに非科学的であり、大分叩かれました)。

 おそらく作者には「人がなんとなく感動する物語」「なんとなく感動する演出」というものが頭の中にあるのでしょう。それをある程度意識できているのは腐ってもプロですが、しかし、その「なんとなく感動的」をあまりに無防備に作中に配置し、脇を全く固めなかった。きちんとした流れを作り、反発する余地を残さないように整備することで、「なんとなく感動的」は初めて「感動的な物語」になるのだと思います。

 実際のところ、『Sporting Salt』が短命に終わった理由はこれだけではないのでしょうが、作品の評価を無駄に落としているのは、この「なんとなく感動的」の濫用だと思います。まず濫用することで「安易」な感じがしてしまうし、脇を固めないことで「手抜き感」も出てしまいます。「なんとなく感動的」というのは、とりあえず使っとけば読者の感動がお手頃に得られる便利テクではなく、むしろ安易な使用は身を滅ぼしてしまうリスキーなものなのです。

 ま、実際のところ「なんとなく感動的」を濫用している作品なんて世の中に山のようにあるんですどね。『Sporting Salt』は特に脇が甘かった。「あやふやな推測」と「異常現象」もそうですけど、そもそも長野五輪では女子スキージャンプは採用されておらず、懐妊どうこう以前に五輪に出場できるわけがないっていうね……。

著者プロフィール

作家

架神恭介

広島県出身。早稲田大学第一文学部卒業。『戦闘破壊学園ダンゲロス』で第3回講談社BOX新人賞を受賞し、小説家デビュー。漫画原作や動画制作、パンクロックなど多岐に活動。近著に『仁義なきキリスト教史』(筑摩書房)