山口洋子『ヒット曲、スゴイ話 うたう前に読む本』(ネスコ、1990年)
山口洋子と、平尾昌晃・猪俣公章・市川昭介という3人の作曲家との各対談を収録。山口と彼らが組んで生まれたヒット曲について、その秘話も続々とあきらかにされている。

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いよいよ大晦日である。今夜、NHKで放送される「紅白歌合戦」は、すでにあれこれ告知されているとおり、みどころもたくさんあるようだ。たとえば今回の出場者のうち最多出場回数(47回)を誇る森進一は、「年上の女」という46年前の歌で出場する。なぜそんな古い歌で? と思ったら、「だめよだめだめ」という歌詞が、女性お笑いコンビ・日本エレキテル連合の例のフレーズの流行によって再度注目されたかららしい。

さて、紅白出場回数で森に次ぐのが、今回で44回を数える五木ひろしである。2人は何かと対比されるが、先に売れたのは森であり、五木はブレイクまでに長い下積み生活を送っている。レコード会社も芸名も何度か変えた五木は、1971年、23歳にして現在の芸名で再デビューを果たした。その再起の曲こそ、今回の紅白で歌われる予定の「よこはま・たそがれ」だった。この歌の作詞者は、今年9月に77歳で亡くなった山口洋子である。山口は生前、五木に対し「あたなは歌がうまい。しかしあなたがもし迷ったりなんかしたときは、『よこはま・たそがれ』を思い出して」とよく言っていたという(山口洋子『ヒット曲、スゴイ話』)。それだけに、彼女を追悼するのにこの選曲ほどふさわしいものはないだろう。

■崖っぷちの無名歌手に「闘う男」の姿を見た山口洋子
山口と五木の出会いは1970年にさかのぼる。当時「三谷謙」という芸名で活動していた五木は、大阪の読売テレビの「全日本歌謡選手権」というオーディション番組に出場した。同番組では、プロ・アマ関係なく歌手たちが10週勝ち抜きをめざして競い合い、最後まで残った者にはメジャーデビューが約束されていた。すでに五木はクラブ歌手としてかなりの収入を得ていたが、郷里・福井の放送局のディレクターに勧められ、迷った末に出場を決断する。この番組ではプロ歌手がアマチュアに敗れることも珍しくなく、まさに引退の覚悟を決めての出場だった。

一方、山口はこのとき、のちに「よこはま・たそがれ」でコンビを組む作曲家の平尾昌晃とともに審査員を務めていた。ほかの審査員から酷評も出るなかで、山口はいち早く五木に注目する。《彼が手にしたマイクロフォンがナイフかピストルに見えました。マイクを持って闘う男がいるんだな》と、歌う五木のなかに闘う姿を見出したというのだ(五木ひろし・坂上直人『五木ひろし ファイティングポーズの想い』)。ここで彼女が、同じ闘う男として思い浮かべたのが、野口プロモーション社長の野口修だった。キックボクシングのプロモーターとしてその日本での普及に貢献した野口は、ちょうどこのころ芸能界にも進出しようとしていた。五木が見事10週を勝ち抜いていく過程で、山口は五木に野口を紹介、その場で野口プロモーション入りが決まる。

そもそも山口は、1956年、19歳にして銀座に高級クラブ「姫」を開店し、その経営のかたわら1968年頃から作詞に手を染めていた。先のオーディション番組での審査員もその流れから引き受けたものである。そこで出会った五木を売り出すべく、山口は詞を提供するばかりでなく、さまざまなアイデアを出した。三谷謙からの改名も、「新しい出発は新しい名前で」という山口の考えによるものだった。彼女はまず、「五木治郎」という芸名を思いつく。これは、売れっ子作家の出入りも多かった「姫」の常連客のうち、五木寛之と生島治郎にあやかったものだ。だが調べてみたところ、すでに五木四郎という歌手がいることが判明する。これではまぎらわしいと治郎はやめ、「いいツキを拾う」との語呂のよさもあって「五木ひろし」という芸名が生まれた。山口はその際、五木寛之にもちゃんと承諾を得たという。ただ、改名当初は、勘違いした人から五木寛之の著書にサインを求められることもたびたびあったらしい。

■“陳腐な言葉”を並べてヒットを狙った「よこはま・たそがれ」
「よこはま・たそがれ」の作詞にあたっても、山口はいくつかの斬新なアイデアを実行に移した。このときお手本の一つにしたのが、同じく横浜を歌った青江三奈のヒット曲「伊勢佐木町ブルース」(1968年)だった。その出だしの歌詞に「あなた知ってる 港ヨコハマ」と“てにをは”がないことに着目した山口は、こんな歌をつくってみたいと考えたという。

さらに、ある雑誌で、日本の歌謡曲は同じ言葉の繰り返しばかりで陳腐だと批判する記事が目にとまる。そこには実例として、戦後の流行歌で頻繁に使われた言葉がいくつか羅列されていた。これを見た山口は、逆にいい言葉があるではないかと、いっそ全部歌詞に入れたらヒットするはずだと思い立つ。こうして「くちづけ 残り香 煙草のけむり」などという具合に、陳腐とされた言葉を“てにをは”抜きで並べることで、あの印象深い歌詞が生まれたのだった。作曲の平尾昌晃は、この詞を見て「これにメロディをつけたら、外国人が片言でしゃべってるみたいで面白い」と感心したという。

再デビューにあたり提供されたこの歌に五木は絶対の自信を持ち、レコードが発売されるや全国各地をプロモーションで駆け回った。その甲斐あって、ヒットチャートでも徐々にランクを上げ、ついには1位を獲得する。それを羽田空港で伝えられた五木は、すぐさま公衆電話から山口に報告したのだが、感激と興奮でまともに言葉が出ず、受話器を握りしめたまま泣きじゃくったという。「よこはま・たそがれ」は、この年の日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞を受賞するにいたった。

それからというもの山口は五木に、レコード大賞を受賞した「夜空」(1973年)や、同じ年の紅白歌合戦で歌った「ふるさと」、あるいは「千曲川」(1975年)など続々と歌を提供し、ヒットさせている。五木・山口・野口による三角関係はその後、1979年に五木が野口プロから独立するまで続いた。奇しくも同年、森進一も所属した渡辺プロダクションから独立している。

■あのプロ野球選手も愛唱していた「ブランデーグラス」
山口は作詞家として成功するばかりか、のちには小説家となり、1985年には「演歌の虫」「老梅」で直木賞も受賞している。山口洋子が小説を書き始めたのは、やはり「姫」の常連客だった作家の近藤啓太郎に勧められてだったという。しかし小説家の道を開いたのは、そればかりではないようだ。山口はあるところで、自分が小説家になるにあたり「書き方は野球の記者席で習い、お金のほうは作詞に面倒を見てもらいました」と語っている(前掲、『ヒット曲、スゴイ話』)。このうち「野球の記者席で〜」というのは、東京運動記者クラブに所属し、プロ野球の取材記事をスポーツ新聞などに寄稿していたことを指す。

スポーツ記者としてプロ野球選手たちと交友するなかで、こんなできごともあったという。それは石原裕次郎に山口が提供した「ブランデーグラス」(小谷充作曲)にまつわるエピソードだ。この曲は1977年にレコードが発売されたものの、すぐに廃盤になってしまう。ただし、石原のレコードのディレクターを長らく務めた高柳六郎によれば、「ブランデーグラス」はレコード会社の意向で初回3500枚しかプレスされなかったというから(『石原裕次郎 歌伝説』)、廃盤というかすぐに品切れになってしまったのだろう。しかし、それでもカラオケではひそかに歌われ続けていたようだ。山口はその現場に、広島カープの宮崎・日南キャンプの取材中に遭遇する。

それは、キャンプ地での選手たち行きつけのスナックに連れて行ったときのこと。ミスター赤ヘルこと山本浩二が、突然「ブランデーグラス」を歌い出した。うれしさのあまり「あ、それ、私の歌!」と叫んでしまった山口。歌っていた当人もまさか彼女が作詞した歌とは知らず、「え、なに、ほんとかい」と驚いたようだ。このあと、半分涙ぐみそうになっていた彼女のため、そこに居合わせた全員がこの歌を合唱してくれたという。

リリースから2年ほどして、この歌は大ヒットとなった。そのきっかけとしては、ドラマ「西部警察」の劇中で石原裕次郎が歌ったことが大きかったとはいえ、すでにそれ以前より、各地の有線のリクエストではじわじわと上位に入るようになっていた。山口は、東京から遠く南のスナックに、廃盤の憂き目にあった曲のカラオケテープと歌詞カードがそろっていたことにびっくりしたようだが、そんなふうに地方で歌ったり有線にリクエストしてくれる人たちがいたからこそ、何年か越しでのヒットに結びついたのだろう。歌をつくる人たちの理想としてよく、詠み人知らずで人々の心に残る歌をつくりたいということがいわれる。「ブランデーグラス」はまさにその言葉どおり、人々の心に生き続けていたのであった。
(近藤正高)