アインシュタインは、マリリン・モンローにプロポーズされたって本当?

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現代科学に多大な影響を与えた相対性理論。これを説いたアインシュタインは学校を中退したり、無国籍になったりと、波瀾万丈の人生を送っていたのはご存じだろうか。

妻と離婚するために、ノーベル賞の賞金を養育費として渡す「質(しち)入れ」契約をおこなったり、イスラエル大統領の座を辞退したりと、周囲から「正気か?」と疑われるほど常識にとらわれなかった。アメリカ人となった晩年はハリウッド・スターからの人気も高く、マリリン・モンローからの誘いを一言(いちごん)のもとに断るなど、数々の逸話を残した人物なのだ。

■養育費はノーベル賞で払います!

アルベルト・アインシュタインは1879年にドイツの都市ウルムで生まれ、3歳ごろまで声を発しなかったため、「この子、大丈夫?」と両親を心配させていた。その後は小学校に通い、9歳になるとルイポルト・ギムナジウムと呼ばれる上級学校へ進学する。

これは現代の中学と高校を合体させたような学校で、この頃から天才ぶりを発揮していた。ただし優秀なのは数学だけで、学校は嫌い、教師も嫌いなアウトローな性格だったため、やがて退学してしまう。高まる戦争ムードのなか、学校でも軍事教練がおこなわれるようになったのも大きな理由で、ドイツを嫌いなんと国籍を放棄…17歳のときにみずから無国籍人になってしまったのだ。

幸いなことに、同じ年にスイスのチューリッヒ工科大学へ入学し、22歳になるとスイス国籍を取得する。スイス人になったアルベルトには兵役の義務が生まれ、徴兵(ちょうへい)検査を受けることになったが、

・扁平足(へんぺいそく)

・多汗症(たかんしょう)

・脚の静脈瘤(じょうみゃくりゅう)

を理由に不合格となる。軍隊嫌いのくせに、この結果には不満をもらしたというが、激しい運動に適していないのは確かだ。

24歳になると、大学で知り合ったミレーヴァと結婚、翌年には長男・ハンスを授かる。このときは定職に就いていなかったというから、度胸も格別である。それから妻の手を借り「一般相対性(そうたいせい)理論」を37歳で発表するが、ときを同じくして別居。

いとこのエルザと暮らす決意をしていたのだ。

離婚交渉が難航すると、「ノーベル賞を受賞したら、賞金は全部あげるから!」と、もらってもいない賞金を質(しち)入れするかたちで説得。結局、43歳で物理学賞を受賞し約束は守られたが、相対性理論と同様に、養育費の捻出(ねんしゅつ)も常人の理解をはるかに超えた方法だった。

■大統領よりも科学者を選ぶ

晩年にアメリカ国籍を取得すると、ハリウッド・スターからも大人気で、喜劇王チャールズ・チャップリンのパーティにもゲストとして呼ばれ、参加者からも大歓迎を受けた。

アルベルトは、自分がどうして歓迎されるのか不思議に思い、チャップリンにたずねると、「私の映画がうけるのは、誰でも理解できるから。あなたの場合、あなたの理論(=相対性理論)を誰も理解できないから」と答えたという。

モンロー・ウォークで知られるマリリン・モンローとの逸話もあり、プロポーズとも受け止められる誘いを、あっけなく断ってしまったのだ。モンローは「私の美貌と、あなたの頭脳を授かった赤ちゃんは、さぞ素敵でしょう!」と持ちかけると、「その逆だったら最悪なので、やめておきましょう」と一蹴…。

絶世の美女からの誘いも、この天才には意味をなさなかった。

その後、73歳のときにイスラエルの大統領就任の要請があったが固辞。世界的な影響力を持つ身となったが、自分がやるべきではないと、あくまで科学者としての人生を選んだ。3年後、76歳で生涯を終える。20世紀に残した彼の足跡は、科学だけではなかったのだ。

■まとめ

・アインシュタインは、子供のころから集団がキラいだった

・「激しい運動に向いていない」という理由で、兵役検査を不合格になった

・もらってもいないノーベル賞をあてに、離婚交渉を成立させた

(関口 寿/ガリレオワークス)