酔っ払って大砲を撃った総理大臣がいた「第2代・総理大臣の黒田清隆」

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連日のように報道される政治家の不祥事。お金がらみの話題が多いが、そんなニュースがかすんでしまうような大事件を起こした政治家がいる。第2代・総理大臣の黒田清隆(くろだ きよたか)だ。

若いころから酒癖の悪かった黒田は、酔った勢いで大砲をぶっ放し、北海道の民家を砲撃…。議会でピストルを振り回したり、自分の政策を批判した井上馨(かおる)の家に刀を持って押しかけたりと、ダイナミック過ぎる総理大臣だったのだ。

■酔って、暴れて、大砲でドン!

1840年に薩摩藩士の長男として誕生した黒田清隆は、21歳で家督を継ぎ、大砲の射手として藩に仕えた。その後は薩英戦争や蛤御門(はまぐりごもん)の戦など、歴史的な戦争に参加し、エリート軍人としての人生を歩む。

転機となったのは箱館戦争で、収束に携わった黒田の手腕が買われ、藩政への参加が許される。政治家デビューを果たしたのだ。

1871年になると、北海道の開拓使・長官代理を命じられる。北海道の近代化は政府の重要課題で、玄武丸(げんぶまる)という元・軍艦が与えられ、札幌農学校の開設で知られるクラーク博士らも同乗していた。

1876年(明治9年)に事件は起きる。北海道・小樽(おたる)市にある赤岩山(あかいわやま)に、黒田が突然大砲をぶっ放したのだ。理由は諸説あるものの、クラーク博士と口論になり、酒に酔い、うっぷん晴らしに発射したらしい。

もともと砲手だった黒田は腕に自信があり、誰もいないところを狙ったようだが民家を直撃…死傷者を出す惨事となった。当時の黒田は37歳。うさ晴らしにしてはやり過ぎだ。

このころすでに黒田の酒癖の悪さには定評があり、長州藩の桂小五郎、のちの木戸孝允(きど たかよし)に酒席でブチのめされたことがある。剣豪で知られる木戸は、最初は我慢していたものの、2〜3発殴られると突如反撃、酔った黒田を投げ飛ばして制圧した。

木戸が没したのは1877年、このとき黒田は38歳なので、かなり若いころから酔って暴れたことがうかがえる。39歳のときに妻が変死したときも「『酔っ払いの黒田』が犯人に違いない」とマスコミに書き立てられる始末で、いま風にいえば「酒乱議員」として有名だったのだ。

■ピストル、刀、なんでもござれ!

そんな黒田も政治家としての手腕は高く、初代総理大臣・伊藤博文に見込まれ、1882年に内閣顧問に就任する。ところが気に入らないことがあると会議にも出席せず、控え室で酒を飲むなど、相変わらずの豪傑ぶりをみせていた。

いつまで経っても会議に出席しない黒田に腹をたて、伊藤が使いの者をよこすと、酔った黒田は「オレは出席しない!」とピストルを持ち出し、使者を追い返す始末で、その後も、

伊藤「まず酒癖の悪さを改めなさい!」

黒田「酒の飲み方までとやかく言われる筋合いはない!」

逆ギレ。いまなら一発退場になってもおかしくない事件をやらかしているのだ。

初代・外務大臣となった井上馨ともただならぬ因縁があり、激高した黒田が刀をたずさえ、井上の家に押し入ったことがある。

きっかけは北海道開拓の一環として導入された海産税で、黒田にとっては会心の策であったが、道民が喜ぶはずもなく暴動が起きるほど不評だった。井上もこれを愚策と批判したところ、激高した黒田が刀を持って自宅に押しかけてきたのだ。

井上が不在と聞くと、黒田は井上の妻を刀で脅して帰る。帰宅した井上も激怒し、意趣返しとばかり帯刀して黒田宅におもむくが、こちらも不在で後妻・たきが対応する。さいわいにも「差し違える覚悟で来たンだ!」と言い残しただけで、惨事には至らなかったが、武器の使用は厳禁で願いたい。

激情型の性格も災いし、第2代・総理大臣に就任するもわずか1年半で辞任。政界から去ってもおかしくない「経歴」だったが、以降も黒田が数々の重要ポストを歴任したのは、ひとえに能力の高さだ。井上馨とは晩年まで親交があり、酒さえ入らなければ「いい奴」だったことを物語っている。

■まとめ

・第2代総理大臣・黒田清隆は、酔っ払って大砲をぶっ放した

・議場でピストルを振り回す、刀を持って他人の家に押し入るなど、多数の事件を起こす

・総理辞任後も重要なポストを歴任し、政治手腕を発揮

・酒さえ飲まなければ「スゴいひと」だった

(関口 寿/ガリレオワークス)